大川周明などは、とおに忘れられたというより、今や知るひとも少ないのだろう。東京裁判の被告席で東条英機の頭をしばいたキの字の人というと、なんとなく思い出す人がいるかも知れない。
ぼくたちは、いつの世も、おとぎ話がないと生きてゆけない。敗者にも弁明の機会が与えられていたのならば、このおとぎ話を聞かせてやりたかったとおもうのはぼくだけではないと思う。内容に共感したとかそういうことではない。こういうお話もあったのだと言うことが、戦後、無理矢理キレイさっぱり忘れさせられたという点で、ぼくたちが今の中国の若者たちが日本にあれほど反感を持つ理由と同じような根っこがあるのだ。中帝のあの騒ぎはあっちが奇妙なだけではない。去勢された日帝の末裔たるぼくたちも、充分奇妙すぎるぐらい奇妙なのだ。そして、50年以上も生きながらえたそのぼくたちのおとぎ話も最早寿命が尽きかけていると言うこともよく認識しなければならない。それは、そのおとぎ話の作者の心変わりによるものだ。ぼくたちだけがそのおとぎ話の世界にまだ行き続けている。
ぼくは、戦後のおとぎ話の由来がどうあれ、実効性がどうあれ、あのとき、ぼくたちが心から得心して身を委ねられると感じたこの物語は、単なる、おとぎ話や夢物語ではなく、命をかけてでも守り抜く普遍的な価値を持つものだと思っている。
米英東亜侵略史
序
昭和十六年十二月八日は、世界史に於て永遠に記憶せらるべき吉日である。米英両国に対する宣戦の詔勅は此日を以て煥発せられ、日本は勇躍してアングロ・サクソン世界幕府打倒のために起つた。而して最初の一日に於て、既に殆んどアメリカ大平洋艦隊を撃滅し、同時にフィリピンを襲ひ、香港を攻め、マレー半島を討ち、雄渾無比の規模に於て皇軍の威武を発揚した。
この小冊子は、対米英戦開始の第七日、即ち昭和十六年十二月十四日より同二十五日に至るまで、四方の戦線より勝報刻々に到り、国民みな皇天の垂恵に恐濯感激しつつありし間に行へるラジオ放送の速記に、極めて僅少の補訂を加へたるものである。そは『米英東亜侵略史』と題するも、与へられたる時間は短く、志すところは主として米英而国の決して日本及び東亜と並び存すべからざる理由を闡明するに在りしが故に、史実の叙述は唯だ此の目的に役立つ範囲に限らざるを得なかつた。若し此の小冊子が、聊かにても大東亜戦の深甚なる世界史的意義、並びに日本の荘厳なる世界史的使命を彷彿せしめ、之によつて国民が既に抱ける聖戦完遂の覚悟を一層凛烈にし、献己奉公の熱腸を一層温め得るならば、予の欣幸は筆紙に尽し難いであらう。
昭和十七年一月
大川周明
米国東亜侵略史
第一日
私は大正十四年、節ち今から十六年以前に『亜細亜・欧羅巴・日本』と題ずる著書を公けにして居ります。此の書物は百頁にも満たぬ小冊子でありますが、容量に似合はぬ数々の大なる目的を以て書かれたものであります。目的の第一は、戦争の世界史的意義を閑明して、当時日本に蹟属して居た平和論者の反省を求めるためでありました、冒的の第二は、言葉の真箇の意味に於ける世界史とは、東西両洋の対立・抗争・統一の歴史に外ならぬことを示すためでありました。その第三は、世界史を経緯し来れる東洋並に西洋の文化的特徴を彷彿させるためでありました.その第四は、かくして全亜細亜主義に理論的根拠を与へるためでありました。而して目的の第五は、新しき世界の実現のために東西戦の遂に避け難き運命なることを明らかにして、之に対する日本の荘厳なる使命を省みるためでありました。私は此の書の最後を下の如く結んで居りますー
『いま東洋と蔭洋とは、それぞれの路を往き尽した。相離れては而ながら存続し難き点まで進み尽した。赦鼻史は両者が相結ばねばならぬことを明示して居る。さり乍ら此の結合は、恐らく平和の閤に行はれることはあるまい。天国は常に剣影裡に在る。東西両強国の生命を賭しての戦が、恐らく従来も然りし如く、新世界出現のために避け難き運命である。この論理は、果然米国の日本に対する挑戦として現れた。亜細亜に於ける唯一の強国は日本であり、欧羅巴を代表する最強国は米国である。この両国は故意か偶然か、一は太陽を以て、他は衆星を以て、それぞれ其の国の象微として居るが故に、其の対立は宛も白昼と暗夜との対立を意味するが如く見える。この両国は、ギリシァとペルシァ、ローマとカルタゴが戦はねばならなかつた如く、相戦はねばならぬ運命に在る。日本よ1一年の後か、十年の後か、又は三十年の後か、そは唯だ天のみ知る。いつ何時、天は汝を喚んで戦を命ずるかも知れぬ。寸時も油断なく用意せよ。建国三千年、日本は唯だ外国より→切の文明を摂取したるのみにて、未だ曽て世界史に積極的に貢献才る所なかつた。此の長き準備は、実に今日のためではなかつたか。来るべき日米戦争に於ける日本の勝利によつて暗黒の夜は去り、天つ日輝く世界が明け初めねばならぬ』
私の此の立言は、十六年後の今日、まさしく事実となつて現はれたのであります。私は日米戦争の真箇の意味に就て、十六年以前と毛頭変らぬ考へを有つて居ります。此の戦争は固より政府の宣言する如く、直接に支那事変完遂のために戦はれるものに相違ありませぬ。而も支那事変の完遂は東亜新秩序実現のため、即ち亜細亜復興のためであります。亜細亜復興は、世界新秩序実現のため、即ち入類の一層高き生活の実現のためであります。世界史は、此の日米戦争なくしては、而して日米戦争に於ける日本の勝利なくしては、決して新しき段階を上り得ないのであります。然らば、日本とアメリカ合衆国とは、如何にして相戦ふに至つたか。太陽と星とは同時に輝くことが出来ないのでありますが、如何にして星は沈み太陽は昇る運命になつて来たか。其の経緯を探ることが取りも直さず私の講演の目的であります。而して此の経緯を明かにすることは、同時に我等の敵の本質を、其の善悪両面に就て併せ知ることに役立つのであります。
そもそも欧米列強の圧ヵが、頓に我国に加はつて来たのは、凡そ百五十年以前からのことであります。丁度此頃から、世界は白人の世界であるといふ自負心が昂まり、欧米以外の世界の事物は、要するに白人の利益のために造られて居るといふ思想を抱き、謂はゆる文明の利器を提げて、欧米は東洋に殺到し初めたのであります、、
然るに当時の臼本は、多年に亙る鎖国政策のために、一般国民は日本の外に国あるを知らず、僅に支那朝鮮の名前を知つて居るだけで、印度の如きさへも之を天竺と呼んで、恰も天空の上に在るかのやうに考へて居たほど、海外の事情に無関心であつたのであります。従つて文化年中にロシア人が北海道に来て乱暴を働かうとしたことは、日本に取りてはまさしく青天の蘇震であり、徳川幕雇は甚だしく狼狽したのであります。幕府は兎にも角にも有らん限りの力を尽して防備の方法を講じましたが、其の後は暫く影を見せなかつたので、文化・天保年中になりますと、却つて其の反動が起こり海防のために力を注いだ松平楽翁公などを、臆病者と笑ふやうな始末でありました。騒ぐ時には血眼になつて騒ぐが止めれば丸で忘れ果てて、外国船などは来ないもののやうに思ふ、これは今も昔も変らぬ日本人の性分であります。左様な次第で其の後の数十年間といふものは、日本は或時は過度に外国の侵略を恐れ、或時は全く国難を忘れ乍ら、其日其日を過ごして来たのであります。然るに嘉永初年の頃から、長碕のオランダ人が孝りに徳川幕府に向つて、イギリス人・アメリカ入・ロシア人などが、日本に開港を迫つて来るから要慎しなさいと注進して来たのであります。此の注進によつて幕府当路の人々や、一部のオランダ学者には、形勢が次第に切追して来たことが知られて居りましたが、其の頃の政治と申せば、総じて何事も人民には知らせず、唯だ由らしめるといふ方針であり、また仮令知らしめようと思つたところで、通信機関の不備な時代でありましたから、国民は無論のこと役人の大部分さへ世界の形勢に就て無知識であつたのであります。尤も暮府は、若し外国船が近海に現はれた場合は『二念なく打払へ』といふ命令を下しては居ました..併し幾ら『打払へ』とは言はれても門遠方に弾の届く大砲もなく、鎖国以来巨船建造を禁ぜられて、一隻の千石舶さへもない状態であつたのであります。
臼古の国内が斯様な状態に在りました時、予てからオランダ人が注進して居た通り、日本に向つて開国を要求する外国軍艦が、堂々と名乗を挙げて江戸に間近き浦賀湾に乗込み、通商開港の条約締結を求めて来たのであります。それは言ふま・でもなくペルリに率ゐられたアメリカ艦隊で、時は嘉永六年陰暦六月三日、暑い盛りの真夏のことで、今から算へて九十八年以前、西暦一八九三年に当ります。先程申上げた通り、比時より五十年以前から、外国船が屡々日本近海に出没しましたけれど、其の立寄つたのは皆な江戸から申せば辺部の地であります。従つて若干の先覚者は夙に慶勃たる憂国の心を抱いて居りましたけれど、国民一般は風する馬牛であつたのであります.然るに此の度のアメリカ艦隊に至つては其の碇を泊せるところは日本国の玄関であり、其の求むるところは条約の締結でありますから、ロシアの軍艦が蝦夷の片隅に立寄つたのとは、其の人心に与へた影響は到底同日の談でなかつたのであります。
浦賀奉行は、ペルリ来朝の趣旨が、アメリカの国書を奉呈し、通商和親を求めるに在るといふことを聴き、日本の国法を説明して、浦賀では国書を受取り兼ねるから、直ちに長崎に回航するやうに申しましたが、ペルリは頑として耳を籍さず、武力に訴へても目的を遂げねば止まぬ意気込を示しました。其の上アメリカの水兵は、勝手に浦賀湾内を測量し勧めたので、日本の法律は左様なことを許さぬと抗議しましたが、ペルリは自分はアメリカの国法に従ふだけで、日本の国法など一向に存じ申さぬと空囎く始末であつたのであります。浦賀奉行の急報に接した江戸幕府の周章狼狽は、まことに目も当てられぬ次第でありました。飽迄も国法を守らうとすれば、忽ち戦争の火蓋が切られて、江戸湾は封鎖される。さずれば鉄道査荷馬車もない其の頃の日本で江戸に物資を運ぷだつた一つの路であつた海上交通が断たれてしまふ。江戸十万の市民は日ならずして飢に迫る。さすれば既に動揺しかけて居た徳川幕府の礎は愈々危険になつて来る。仮に幕府ぽ何5なつても宜いとしても、何等防戦の準備なくしてアメリカと戦端を開くことは、.日本の興廃に関する一大事となることを痛感したので、幕府は遂に久里浜に仮館を建て、六月九日此処でペルリからアメリカの国書を受取り、返事は明年といふことにして、一旦浦賀を引上げさせたのであります。恐らく幕府の役人のうちには、アメリカと申せば波濤万里の彼方である、往復には先づ二三年もかかるであらう、其の内に何とか妙策もあるだらうと考へた者もあつたでありませうが、ベルリは決して浦賀を去つたのではなく支那の上海に行つただけでありましたから、約束通り翌嘉永七年正月勿々、またもや浦賀に来り、而も此度は進んで神奈川湾に設錨し、幕府に向つて厳重に確答を求めたので、止むなく幕府は横浜でベルリと談判を行ひ、遂に日本は長崎の外に下田・函館の二港を開く約束をしたのであります。
僅に百年以前のことでありますが、当時の日本と今日の日本とを比べて見ますと、実に感慨無量であります。嘉永六年六月九日、愈4ペルリが久里浜に上陸するといふので、アメリカ軍艦は砲門を開いて祝砲を放ちました。その毅毅轟々たる響に驚いて、久里浜の漁尻はすは戦争だと仰天し、夜具包や仏壇などを背負ひ出して、山手の方に逃げまどつて居ります。ベルリ一行に腰掛けさせる椅子が無いのに困り、いろいろ智慧を絞つた揚句に考へついたのが、葬式の時に坊さんが使ふ曲録であります。それが宜からうといふので、村役人・町役人に命じて寺々から曲録を借り集めて見たものの、執れも古色蒼然たるものばかりで、漆が剥げて居たり脚が折れたりして居ます。そこで大急ぎで朱塗の剥げたのには紅殻を塗り、黒塗の剥げたのには墨を塗り、殿れたところは釘で打ちつけなどして漸く十脚だけ調へましたが、其の中で一番綺麗なのが身比村の最宝寺の朱塗の曲録でありましたので、浦賀奉行が之に腰掛けることにしました。それよりも情なかつたのはペルリ艦隊が浦賀碇泊中の日本側の警備であります。幕府は四人の大名に此の警備を命じたのでありますが、其の方法は各大名が漁師から借り集めた漁船を以て、アメリカ軍艦を取囲み、謂はゆる八陣の備を取つて居るのであります。八陣の備と申すのは、三方から軍艦を取巻き、陣鐘・陣太鼓を鳴らし、法螺貝を高らかに吹立て、丁度鶏が羽を緊めるやうに、軍艦を羽がひじめにするのであります。其等の船には皆々沢山の旗や差物を立てて居るのでありますが、風が強く吹き初めると旗や幟がはためいて、船の動揺が激しくなるので、急ぎ之を旗竿に巻付け、船舷に横什しにして縛り付けねばなりませぬ。其の上艦長は各藩の家老が之を勤めましたが、輌が荒くなると肝心の艦長が忽ち船に酔ひ、坤りながら号令をかけるので何を言ふのやら聴き取れぬ始末であります。而してアメリカ人は軍艦の上から此の有様を望遠鏡で眺めて居たのであります。此の警備はペルリからの抗議で解/ことにしましたが実際は何の役にも立たなかつたのであります。此の時の警備の実状を目撃した一人が斯様に申しで居りますー『彼の際に仮令「片の風なく、十分に八阯の備を完うしたるにもせよ、いギ、戦争といふ場合に於ては、先方に於て仰々しく砲門を開き発砲するに及ばず、ただ軍艦を以て、取巻きつつある百石積の運送船又は漁船の問ル縦横に操縦し暴れ廻るに於ては、恰も玩弄物の天神様を摺鉢の中に入れ之を摺るが如く、一瞬にして粉砕微塵となスや必せり。然るにペルリは十分に此の状態を知りつつ、心を和らげ温心以て応接を遂げしは、実に寛仁大度の器量張るものと云ふ可し』
さてアメリガが如何なる径路を経て、日本に艦隊を派遣するに至つたかを述べる前に、先づペルリの人と為りに静て申上げて置かねばなりませぬ。ペルリは一九五八年に使命を果たして帰国してから、直ちに詳細なる報告を政府伊提出して居ります。此の報告は後に印刷に附せられ『 八五二・}八五三・一八五四年に行はれたる支那海及び日+へのアメリカ艦隊遠征顛末』といふ長い表題の本となつて居りますが、実に四六倍版六百頁の大冊で、遠征中に是κけのものを書き上げるだけでも並々の仕事でありませぬ。而して報告中に現れたる彼の知識、彼の識見、注意の周酬などにょつて判断すれば、疑ひもなく彼は当時アメリヵ第一等の人物であります。仔細に此の報告を読みますれば、我4は当時のアメリカの是非善悪を最も良く掴み得るやうに思はれます。ペルリは一八五二年十一月二十四日ノーフォークを出発し、大西洋を横断して十二月十一日、即ち十八日目にマメィラ島に達し、鼓で越年して一八五三年一月十日セント・ヘレナ島に寄港、一月二十四日ケープ・タウンに到着し、二月三日に此処を出帆して十八日に印度洋上のモーリシャス島に着いて十日間滞在、次で三月十日にセーロン島、三月二十五日にシンガポール、四月七日に香港、五月八日に上海、五月二十六日那覇に着き、それから浦賀に参つたので、出帆してから約八箇月を費して居ります。これが当時アメリヵから東洋に参る普通の順路であつたのであります。
ペルリは此の航海の途上に於て、欧羅巴諸国の数々の植民地に寄港したのでありますが、丹念に其の植民政策を研究し、其の非入道的なる点を指摘して、手酷き攻撃を加へて居ります。わけても薯しく目につくことは、イギリスに対する激しき反感であります。セント・ヘレナに寄港中は、ナポレ才ンが幽囚されて屠た見すぼらしき家を訪ね、仮令敵とは言へ、古今の英雄にかくの如き待遇をするとは何事ぞと義憤を洩らして居ります。当時イギリスは、ナポレオンが五年間も起臥して居た家を、家賃を取つて「人の百姓に貸し、其の百姓はナポレオンの使用して居た部屋の「つを厩にして居たのであります。またイギリス植民地統治の残酷に対しても忌渾なく弾劾を加へて居ります。是を今日の英米関係に対比して見ますると、誠に今昔の感に堪へないのでありますが、当時はアメリカがフランスの助力によつて独立してから六七十年、イギリスと戦つてから三四十年経つたばかりで、今日とは事変り、アメリカは大なる敵意と反惑とをイギリスに対して抱いて居たのであります。但し彼は外国殊にイギリスの侵略主義を非難すると同時に、正直に自国の非をも認め、我々もメキシコ其の他に対して道徳に背くやうなことをやつたが、之は国家の必要上止むを得ぬことであつたと申して居ります。彼は其のメキシコ戦争に於ても、艦隊司令官として戦つたのであります。
ペルリは日本に参る前に、実に丹念に日本及び支那の事情を研究して居りました。彼は日本人が高尚な国民であること、之に対するには飽迄も礼儀を守り、対等の国民として交渉せねばならぬことを知つて居たのであります。即ち日本に対しては、オランダリ姐き卑屈な態度を取ってはならねし、またイギリスやロシアの如き乱暴な藤曼を取つてもならぬ。何処までも礼儀を尽して交渉し止むを得ぬ場合にのみ武力を行使するといふ覚悟で参つたのであります。但し日本を相手に戦争を開く意図はなく、従つて果して開港の目的を遂げ得るや否やを疑問として居ります。此の事は一八五二年十二月十四日附でマディラ島から海軍長官に宛てた手紙の中に明記して居ります。但し其の揚合は、日本の南方に横たはる島、即ち小笠原島か琉球を占領すべしと建策して居ります。
斯様な次第でペルリは中々立派な人物であり、かかる人物が艦隊司令官として日本に参つたことは、日米両国のために幸福であつたと申さねばなりませぬ。其の上アメリカ合衆国も当時は決して今日の如き堕落した国家ではなかつたのであります。アメリカ建国の理想は尚ほ未だ地を払はず、ワシントンの精神が国民の詣導階級を支配して居た時であります。若し今日の米国大統領ルーズゴル}及び海軍長官ノックスがペルリの如き魂を有つて居るならば、若し彼等が道理と精神とを尚ぶことを知つて居るならば、若しアメリカが唯だ黄金と物質とを尚ぶ国に堕落して居なかつたならば、日本に対して此度の如き暴慢無礼の態度に出で、遂に却つて自ら墓穴を掘る如き愚を敢てしなかつたらうと存じます。
第二日
さて第十九世紀前半のアメリカは、実に急速なる領土拡張の時代でありましたが、其の拡張は植民と征服と買収との三つの方法を以て行はれ、面積は半世紀間に三倍半となつて居ります。此の領土拡張に伴つて当然人口も増加し、是亦約三倍半になつて居ります。而して此の頃から東洋貿易への参加といふことが次第にアメリカの関心を惹き初めわけても無限の富を包蔵すると思はれた支那市場が彼等の大なる誘惑となり、大西洋を横ぎつて阿弗利加を回り、丁度ペルリが通つた航路によつて印度洋及び支那海に至るアメリカ商船は年々其の数を加へて来たのであります。従って、此の頃はアメリカ造船業の黄金時代でもあり、一八六一年の統計に拠りますと、アメリカ商船の総噸数は五百五†四万噸、イギリスのそれは五百九十万噸、英米両国を除く世界諸国のそれが五百八十万噸、即ちアメリカは世界商船総噸数の三分の一を占め、イギリスと雁行する商船国となつて居るのであります。恰も斯かる時に当り、カワフォルニアに金山が発見され、東部のアメリカ人は言ふ迄もなく、世界各国の人4が、アメリカの太平洋沿岸に殺到して来たので、沿岸一帯は急激なる発展を見るに至りましたが、就中支那労働者の米国に渡航する者が俄に多数となり、同時に米国商品の対支輸出も次第に盛況に赴いたので、従来の如く大酉洋.・印度洋を経て支那海に至る迂回路を棄て太平洋夕横ぎつて支那に至る直接航路を開く必要が迫つて来たのであります、
加之、太平洋はムニつの意味でアメリカ人の心を惹き付けたのであります。第十八世紀から第十九世紀にかけて捕鯨はアメリカ及びロシアの最も重要なる産業の一つでありましたが、第十九世紀初頭に至つて大西洋の鯨は殆んど捕り尽され、同時に北太平洋に魑しき鯨の居ることが知られたので、此の方面に於げる捕鯨船の活躍が頓に目覚ましくなりました。殊に一八四二年、米露両国の間に条約が結ばれ、両国互に其の領海内に入つて鯨を捕り得るやうになつたので、アメリカ捕鯨船の日本近海に出没するもの俄に多くなり、一八四〇年代には既に千二百隻に及んだと言はれて居ります。当時何故に彼等がそれほど捕鯨に熱心であつたかと申せば、蠣燭の原料にする油を取るためであつたのであります。其の頃の欧羅巳は、植民地から搾取した富によつて生活は豪奢となり、各国の宮廷を初め、貴族富豪は競つて長夜の宴を張つて、飲み且つ踊つて居たのであります。其の宴会揚を真昼の如く明るくするために、数限りなく蝋燭を灯したのでありますが、其の蝋燭の白蝋が鯨油から取れるので、贅沢が増せば増すほど、鯨が蝋燭に化けて欧羅巴の金殿玉楼を照らすことになつたのであります。
斯様な次第で太平洋に出漁する捕鯨船のためにも、暴風や難破の際の救謹所又は避難所が必要になり、米支直接航路のたみには中間の貯炭所又は食料補給所が必要になり、かくの如き必要のためにアメリカは我国に着冒するに至ったのであります。さういふ経緯を経てアメリヵに於ける日本訪問の機が次第に熟し、一入五〇年には米国議会が此の事を決議し遂にペルリの日本派遣となつたのでありますが、其の時に政府がペルリに与えた訓令の要旨は下の如きものであります。即ち第一にはアメリカ船舶が日本近海で難船し又は暴風を避けて日本の港湾に入つた場合、日本はアメリヵ人の生命財産を保護するやう永久的なる和親条約を結ぶこと、第二はアメリカ船舶が燃料食糧の補給のために入港し得る港を選定すること、第三には通商貿易のために二三の港を開かせることであります。
ペルリは日米通商の下地を作つて帰国し、其の後を受けて日米条約を締結したのはハリスであります。此の条約調印のために井伊大老の首が飛び明治維新の機運を激成したことは申上げるまでもありませぬが、私は当時の談判の経緯を仔細に書残せるハリスの日記から、二三の重要なる箇処を紹介して置きます。先づ彼は『従来幕府の役人は、日本の主権者たるミカドに対して、動もすれば之を軽んずる傾向があつたが、近来は盛んにミカドの絶対権を主張するのを見て、大勢の推移したことが感ぜられる。予は従来将軍を以て事実上の日本の君主と思つて居たが、今やミカドが名実共に主権者にして、将軍は其の仮装的統治者であるやうに思はれ初めた』と申して居ります。これはハリスの談判進行中に俄然として勤皇論が擾頭し来れることを示すものであります。また彼は『日本といふ此の不思議な国の数々の中で、ミカドの如く予の判断を苦しめたものは無い』と書いて居ります。此のミカドの不思議は、ひとりハリスのみのことでありませぬ。それは九十年後の今日のアメリカ人に取つても、依然不思議のものとなつて居ります。但し此度の日米戦争に於ける日本の勝利の根抵を奥深く探ることによつて、或はアメリカ人も初めて此の不思議を理解するに至るかも知れません。私は其の然らんことを切に祈つて止まぬものであります,
さて此の頃のアメリカは、当時の大統領ビューカナンが一八五七年五月、支那使節に任命されたヰリアム・ピヅドに与へた教書に於て『支那に於て我が同胞の通商と生命財産の保護以外には、如句なる目的をも追求せざることを銘記せよ』と述べて居る通り、当時支那に起りつつありし長髪賊の乱に対しても傍観的態度を取り、.ヘルリが画策せる琉球占領計画をも『面白からぬ提案』として斥け、また之と時を同じうして台湾を米国の保護領とせよといふ宜教師パルケルの画策をも黙殺して居ります。時の国務長官シュゥォードは、将来太平洋が世界政局の中心舞台たるべきことを力強く主張したので、歴史家は好んで『シュウォード時代』又はシュウォード政策といふ言葉を用ゐまするが、実際に於ては、何等積極的活動を太平洋又は東洋に於て試みて居りませぬ。一入五〇年に至つて一旦は著しく活濃となつたアメリカの太平洋及び支那に対する活動は、→八六一年に始まれる南北戦争以後、一八九八年のフィリピン占領に至る四十年聞、甚だ消極的となつたのであります。
蓋し此の時代は未だ金融資本主義が現れず、帝国主義の未だ確立せられない以前であつたので、欧米の東洋政策、わけても対支政策の領域を支配して居た産業資本は、支那を自国製品の販売市場として、又は原料生産地として、最大限度に之を利用することを主たる目的として居たのであります。例へば一八六七年、アメリカ政府がロシアからアラスカを買収した時に、国民は政府の帝国主義的動向を激しく非難し、国内に未だ耕されぬ土地が彩しいのに、何の必要あつて斯様な無駄な買物をするのか、白熊でも飼ふつもりかと憤つて居ります。また京城駐剖米国公使が、朝鮮に於ける宣教師と共力してアメリカ勢力を京城に扶植せんとした時も、ワシントン政府は該公使に対して『朝鮮の政治に干渉することは貴下の権限外なり』とたしなめて居ります。日清戦争(一八九四・五年)の時も、時の国務長官グレシャムは『米国は武力を行使し、又は欧羅巴列強と提携して此の戦争に干渉する意図なし。米国は表面は好意的中立を守り、内実は日本にのみ好意を寄せんとするものなり』といふ訓令を、京城駐剤公使に与へて居ります。当時のアメリヵは、日本の膨脹はアメリカを脅威せずと考へて居たのであります。
而も日清戦争は東亜政治史全体の偉大なる転回点となつたのであります。即ち日本に破れた支那が此の時初めて針建支那の無力と解体とを全面的に暴露せるに乗じて、恰も此の頃に掻頭し来れる帝国主義が、孤立無援の支那を掠恋の対象として、激しく殺到し初めたのであります。而して之と共にアメリカの東洋政策も、俄然面目を改めたのでおります。
さてシュウォードの太平洋制覇の理想は、只今申上げた通り、約半世紀の間、アメリカの具体的政策とはならな朔つたのでありますが、彼の理想は一部のアメリカ政治家によつて堅確に継承されて来たのであります。この理想は一入八〇年代から次第にアメリカに浸潤し初めて来た帝国主義と相結んで、アメリカの東亜政策も漸く積極性を帯びみやうになりました。而して此の新しき帝国主義の最も勇敢なる実行者は、今日の大統領フランクリン・ルーズヴェルトの伯父セオドル・ルーズヴェルトであり、其の最初の断行が一入九入年の米西戦争を好機として、フィリピン群島及潔グアム島を獲得したことであります。戦争の当初に於て、時の大統領マッキンレーは『アメリカはフィリピン群島の強制的併合を行はんとするものに非ず、予の道徳的規範によれば、かくの如きは犯罪的侵略なり』と声明したに拘隊ず、後には『神意』と称してフィリピン統治タテメリカに委任することを要求したのであります。その一切の献立か行つたのが、取りも直さず海軍長官であつたルーズヴェルトでありまず。アメリカはスペインの統治に不満なりしフィリピン独立運動者を煽動し、之を援助してマニラのスペイン守備隊を攻撃させました。此の時アメリカは数灯の約古を彼等に与へたが、彼等を片付けるに足る軍隊がアメリカ本国から到着するに及んで一切の約束を躁踊し去つたの郭あります。即ちフィリピン独立党はアメリカに欺かれて、其の手先となつてスペイン軍と戦ひ、然る後に彼等自身汰葬り去られたのであります。当時の日本人民間にはフィリピン独立運動に援助を与へた人々も多く、アメリカの悪堀なる手段を痛憤したのでありますが、日本政府は「如何なる国が南太平洋で日本の隣邦となるよりも、アメリカが瞠邦となることを欣ぶ』として、米国のフィリピン併合に賛意を表したのであります。
いまやアメリカは『イギリスが香港に拠る如く、我等はマニラに拠る』と公言し、フィリピンを根城として東亜問題に容曝する実力を養ひ初め、一八九九年には国務長官ジョン・へ!の名に於て、名高き支那の門戸開放を提唱し、翌}九〇〇年には、支那の領土保全を提唱したのであります。此の二つの提唱は、アメリカ人の言分によれば、或る程度まで利他的政策であり、支那に同情し支那を援助せんとする希望から出たものであるといふのでありますが、それは偽りの標榜であります。第一にへーは此の政策を提唱するに当つて、毫も支那自身の希望や感情を顧みず、支那政府は門戸開放に同意なりや否やの問合をさヘアメリカから受けたことが無かつたのであります。へーの提唱は、支那に対するアメリカの権利を一方的に主張したもので、要するに支那はアメリカの同意なくては如何なる国にも独占権を与へてはならぬ、関税率を決めてはならぬ、相互条約を結んでもならぬといふ要求であります。蓋し欧羅巴列強は、アメリカに先んじて支那に於てそれぞれ勢力範囲又は利益範囲を確立して居たので、立遅れたアメリカは、支那に対する自国の政治的・経済的発展に大なる障碍の横はれるに当面し、之を撤去するために門戸開放を唱へたのであります。また其の領土保全主義は、支那が列強によつて分割せらるる揚合、アメリカの現在の準備と立揚では、自分の分前が甚だ少なかるべきことを知つて居たので、支那に於ける自国の利益を消極的に守るために他ならなかつたのであります。即ちロシア及びイギリスが、既に武力と襖土占領の手段によつて其の勢力を支那に張り、殊にロシアの如きは将来も同様の手段を遂行せんとするに対し、アメリカは門戸開放と領土保全とを提唱する以外、支那に於ける現在及び将来の帝国主義的利益を擁謹するために、如句なる現実の手段をも有たなかつたのであります。
第三日
支那に対するアメリガの門戸開放提唱は、いつも乍らのアメリカ流儀で、甚だ堂πたるものではありましたが、内実は昨日申上げた通り、一つには支那に於けるアメリカの利益を保護し、また一つには列強の対支進出を消極的に阻止する目的を以て行はれたものであり、其の上此の提唱によつて格別の効果を挙げることも出来なかつたのでありま丁。その挺唱者である国務長官ジョン・へーが、既に下の如く却して居りますI-i『予は支那人に向つて、アメリカに与へで居らぬやうな特権を他国に与へるなと激励した時に、支那人は文字通り斯う答へた1若し他国が武力に訴へて来た場合、支那だげでは之に抵抗出来ないが貴国は其の時に支那に味方をしてくれるかと。予は残念ながら然りと答へることが出来なかつた..戴に米国の根本的弱点がある。我等は支那を掠奪しようとは思はないが、他国が支那を掠奪する場合、我国の輿論は武力を以て之に干渉するを許さない。其の上銭等は十分なる兵力を有つて居ない』斯様な次第でアメリカは東亜進出の準備と態度だけは整へましたが、大体立遅れて居たのでありますから、決して易々と目的を遂げることは出来なかつたのであります。
但し此頃に至つて太平洋の重要性は何人にも明白になり、第十九世紀に於ける世界政局の中心は大西羊でありましたが、第二十世紀に入つて舞台は明かに太平洋に移り、従つて覇を太平洋に称へることが、取りも直さず世界的覇権を握ることを意味するやうになつたのであります。新興アメリカ精神の権化といふべきセオドル・ルーズヴェルトは、最も明瞭に此の聞の消息を看取し、一九〇五年六月十七日附で友人B・1・ホヰーラーに宛てた手紙の中に、アメリカの将来は、欧羅巴と相対する大西洋上のアメリカの地位によつてに非ず、支那と相対する太平洋上の地位によって定まるのだと明言して居ります。
然らば太平洋をして世界政局の中心たらしめるのは何故であるか。何が太平洋をして左様に重大なものたらしめるか。曰く、其の岸に沿うて支那満蒙が横はつて居るからであります。太平洋を続る周囲の国π、洋上に浮ぶ大小の鼻々は、既に欧米列強の領有するところとなり、又は欧米勢力の確立を見たのでありますが、独り東亜だけに於ては、尚ほ未.だ敦れの国々の勢力も、絶対に圧倒的ではなかつたのであります。列強が尚ほ競争角逐を試みる余地があり、而も尚ほ未だ十分に開発されて居ない彪大なる国土があるが故に、太平洋は限りなく価値あるものとなつて居るのであります。此処には列強が其の工場を養ふべき豊冨なる資源が、尚ほ未だ開発されずに埋もれて居ます。たとへ貧乏であるとは言へ、四億の人口を擁することは、欧米列強に取りて無二の市揚であります。例へば昭和初年に於て、日本では毎年一入当り三十入円つつ外国品を買つて居りますが、支那では僅に三円七十銭前後、即ち我国の十分の一に足らぬほどしか買つて居りませぬ。若し支那人が一人当り十円つつ外国品を買ふやうになれば四十憶円、二十円つつ買ふやうになれば実に八十億円の大金が、外国商人の腹に落ちるのであります。加之、支那の国情が安定すれば、資本を投じて是程儲かる国はありませぬ。鉄道一本布くにしても南米などに布いたのでは、鉄道沿線一帯が開拓され尽すまでの何十年闇は、猿や鵬鵡でも乗せなければ、荷物も客もないのであります。然るに支那ならば、鉄道開通の日から、旅客にも貨物にも困らないのであります。斯様な事情でありますから、支那が欧米列強の進出の最大目標となつたことに、何の不思議もありませぬ。それ故にアメリカに取りては、太平洋を支配するといふことは、東亜を支配するといふ意味であります。東亜を支配するといふことは、支那満蒙に於ける資源の開発、その広大なる市場の獲得、その高率なる投資利益に於て、他国よりも優越せる地歩を確立するとい・瀞意味であります。さればこそルーズヴェルトは、先程の手紙の中に、唯だ漠然と太平洋とは申さず、実に『支那と相対する太平洋」と銘打つて居るのであります。而してアメリカ.の太平洋進出、従つて東亜進出は、日露戦争直後から初めて大胆無遠慮となつて来たのであります。
総ての攻撃又は進出は、常に抵抗力の最も薄弱だと考へられる方向に向つて試みられます。然らばアメリカは、多年に亙る東亜進出計画を愈マ実行に移すに当つて、何処を最小抵抗と睨んだか。曰く満蒙であります。日露戦争によつて国力を弱めて居た日本の勢力圏満蒙が実にアメリカ進出の目標となつたのであります。
ルーズヴェルトの調停によつて行はれた日露両国の講和談判が、尚ほポーツマスに於て進行中のことでありますロア'リカの鉄道王と呼ばれたハリマンが、条約によつて目本のものとなるべき南満洲鉄道を買収するために、一九〇五年入月下旬、秘かに日本に来朝したのでありますが、極力彼に奨めて此の来朝を促したのは、時の東京駐劉米国公使グリスカムであります。ハリマンが如何なる弁舌を揮つて日本政府を範絡したかは詳しく存じませぬが、日本は遂に彼の提議を容れて、驚くべき内容を有する覚書が、十二月二十日附を以て極首相とハリマンとの間に成立したのであります。その内容とは、満鉄及び満鉄に属する鉱山其の他各種事業の権利の半ばを、ハリマンの支配するシンジケー}に譲渡し、之に相当する代金を受取るといふことであります。而してハリマンは、此の覚書を手に入れた其の日の午後に、直ぐさま横浜から船に乗つて帰国の途に上りました。
その丁度三日後に、ポーッマス条約を携へて帰朝した小村全権が、其の覚書を見て驚き且つ憤り、極力反対を唱へて遂に政府を動かし、之を取消させたのである。日本政府が何故に満鉄をアメリカに売る決心をしたかは、我々の今日に至るまでの不可解とするところであります。日本は文字通り国運を賭してロシアと戦ひ、多大の犠牲を払つて勝利を得ましたものの、之によつて日本が獲得せるところのものは、必ずしも大でなかつたのであります。日本国民はハリマンが秘かに東京に来たころに、講和談判に不平を唱へて焼打の騒動となり戒厳令まで布かれたのであります。然るに其の少き獲物のうちから、満鉄をアメリカに売つてしまへば、勝利の結果を全く失ひ去るに等しいのであります。当時若し日本国民がハリマン来朝の真意を知つたならば、その激昂は一層猛烈であつたに相違ありませぬ。想ふにハリマンは、日本が経済的危機に迫つて居たのに乗じ、講和談判斡旋の恩を笠に着て、日本から満鉄利権の半分を見事に奪ひ取つたもので、若し小村全権が敢然之に反対しなかつたならば、恐らく日本の大陸発展が、此の時既にアメリカのために阻止されてしまふ筈であつたのであります。
此のハリマンの満鉄買収策は、極めて大規模なる計画の一部であつたのであります。その計画とは、先づ第一に満鉄を手に入れ、次でロシアの疲弊に乗じて東支鉄道を買収し、かくしてシベリア鉄道を経て欧羅巴に至る交通路を支配し、鉄道の終点大連及び浦塩から、太平洋を汽船でアメリカの西海岸と結び、大陸横断鉄道によつて東海岸に至り東海岸から汽船で大西洋を欧羅巴と結ぶ交通系統、即ち世界一周船車聯絡路をアメリカの手に握る第一歩として、満鉄を日本から買収しようとしたのであります。
さてルーズヴェルトが日露の問に立つて講和談判の斡旋をするまでは、是れまで申上げて来たやうに、アメリカは大体に於て常に日本に好意を示して来たのであります。然るにハリマンの計画一たび失敗するに及んで、日本に対するアメリカの態度は、次第に従前とは違つて来たのであります。それはアメリカが、日本を以てアメリカの東洋進出を遮る大なる障碍であると考へ初めたからであります。鼓にアメリカの甚だしき無反省と横暴とがあります。東亜発展は日本に取りて死活存亡の問題であります。さればこそ国運を賭してロシァと戦つたのであります。然るにアメリカの東洋進出は、持てるが上にも持たんとする贅沢の沙汰であります。アメリカは其の贅沢なる欲望を満たさんがために、日露戦争によつて日本が東亟に占め得たる地位を、無理矢理に奪ひ去らんとしにのであります。実に此の時より以来、アメリカは日本の必要止むなき事情を無視し、傍若無人の横車を押し初めたのであります。
横車の第一は、日露戦争の終つた翌年即ち一九〇六年に、突如当時の東京駐翫代理公使ヰルソンをして、下の如き提言を日本政府に向つて為さしめたことでありますー『満洲に於ける日太官憲の行動は、総て日本商業の利益を扶植し、日本人民の為めに財産権を取得せんとするにありて、是が為め該地の日本軍隊の撤退を了する頃には、他の外国の通商に充つべき余地は稀有、若くは絶無たるに至るべく、世界列国の正当なる企業並に通商に対する門戸開放に同意すと錐も、日本従来の潜越なる専権に鑑み、斯の如き行動は合衆国政府の甚だ遺憾とする所なり。日本政府は、露国が嘗て該地方に実質的の国家的統制を為さんとして失敏せるに鑑み、切に反省せん事を望む』。かういふ乱暴な文句をつけた のであります。十71月の生霊を犠牲にし、二十意の金を偵つて、満洲からロシア勢力を駆逐したのでありますから、有らゆる企業を計画することは当然至極のことなるに拘らず、既に日.露戦争の翌年から、アメリカはかやうな横槍を入れて居ります。
次には翌一九〇七年のことであります。支那に於て事業を営むことを主として居るイギリスのボーリング商会が、秘かに支那と交渉を進め、京奉線即ち奉天から北京に至る鉄道の一駅新民屯から、先づ北方法庫門に至り、行く行くは北へ北へと延ばしてシベリア鉄道と聯絡する斉π陰爾までの鉄道敷設権を獲得したのであります。当時の奉天のア・メリカ総領事は、有名なストレー}であります。ストレートは成功しなかつた米国のセシル・ローヅと言はれ、「九〇一年コーネル大学を卒業すると直ちに支那に赴き、ロバート・ハートの下に在つて支那海関に三年勤務し、日露戦争の勃発と共に新聞記者となつて朝鮮に赴き、此処で京城駐剤米国公使に知られ、その私設秘書兼副領事を勤め、其の・時に日本来朝の序でに朝鮮を旅行したハリマンと相識り、大いに鉄道王の尊敬を博したのでありますが、一九〇六年塑に二十六歳にして奉天総領事となつて赴任したものであります。ひとりハリマンのみならず、ルーズヴェルトもタフトも、皆なストレートを非常に重んじて居ました。
此のストレートは、有らゆる機会を捉へて日本を抑へつけ、アメリカの力を満洲に扶植する覚悟で着任したのでありますから、ボーリング商会が法庫門鉄道敷設権を獲得しますと、彼は直ちにアメリカを之に割込ませたのであります。此の鉄道は満鉄と並行して、シベリア鉄道と渤海湾とを結びつけるものでありますから、此の鉄道が布かれることになりますと、満鉄は大打撃を受けなければなりませぬ。今日に於ても満洲農産物の最も多いところは北満洲一帯であります故に、其処から出る農産物が満鉄を経ずに営口又は窃置島に出ることになれば、日本は満鉄を有つて居ても甲斐もないことになります。従つて小村全権が北京に於て満洲善後条約を支那と結んで、下の如く約束して居りますー『支那政府は南満洲鉄道の利益を保謹する目的を以て、自ら該鉄道を回収する以前に於ては、該鉄道の附近に於て、若しくは之に併行して如何なる鉄道をも敷設せず。又該鉄道の利益を害する如何なる支線をも敷設せず』。支那がかういう約束をして置きながら、ボτリング商会に法庫門鉄道の敷設を許可することは、疑ひもなく条約違反でありまず故に、日本は強硬に之に抗議し、遂に支那をして一旦与へた許可を取消さしめたのであります。
さりながら、ストレートは、決してそれ位のことで思ひ止むものでありませぬ。彼は翌一九〇八年、支那当局老との間に満洲銀行設立の約束を結んだのであります。当時支那の政治の実権を握つて居たのは震世凱であります。蓑世凱は、日露戦争前並に日露戦争中は、我国に非常なる好意を示して居たのであります。それは回シアといふ共同の敵があつたからであります。然るに日露戦争以後、ロシアに代つて日本が満洲に勢力を張るに至りますと、今度はアメリカの力を借りて日本の満洲に於ける発展を摯肘しやうといふ方針に変へたのであります。此の衰世凱の親米政策を利用して、ストレートは当時の東三省総督徐世昌及び奉天督辮唐紹儀と相図り、満洲に於ける鉄道の敷設並に産業の開発を・三目的として、其の金融機関たる満洲銀行を建てることを承認させ、二千万弗借款の仮契約を結んで、欣ぴ勇んでアメリカに帰つて往つたのであります。アメリカは此の銀行を機関として、満洲に於て日本と角逐して鉄道並に事業を始めようとしたのであります。然るに日本に取つて幸福であつたことには、此の年衰世凱が政変のために失脚し、彼の政敵なりし醇親王が支那の政治を執るやうになりましたので、ストレー・「の計画は今度も失散に終つたのであります。
また此の年即ち一九〇八年十一月に、アメリカは時の駐米日本大使高平小五郎に対し、日本は満洲に於て決して他国の事業の邪魔をせぬ、門戸開放・機会均等の主義を忠実に守ると約束せよと提議し、日本をして之を応諾させたのであります。かくして謂はゆる高平・ルート協定の成立を見たのであります。
第四日
今日も引続きアメリカの横車について申上げます。昨日申上げた通り、アメリカは日支両国の間に満鉄に並行する鉄道を布かぬといふ約束あることを知つて居たに拘らず、またボーリング商会と合作して企てた法庫門鉄道計画が失敗したのに懲りず、一九〇九年またもや極秘の間に支那政府と交渉を進め、渤海湾頭の錦州から斉々喰爾を経て、黒竜江省愛琿に至る非常に長距離の鉄道敷設権を得たのであります..此の錦愛鉄道は、此前の法庫門鉄道よりも満鉄にとつて一層致命的なる並行線であります。此の平行線の敷設権を支那から得たのは、一九〇九年十月のことでありますが、十一月に至りて国務長官ノックスは、先づ英国外相グレーに向つて、二つの驚くべき提案を行つたのであります。第一は英米一体となつて満洲の全鉄道を完全に中立化させること、第二は鉄道中立化が不可能の場合には、英米提携して錦愛鉄道計画を支持し、満洲の完全なる中立化のために、関係諸国を友好的に誘引しようといふのであります。英国外相は此の提案に対して体よき拒絶を与へたに拘らず、ノックスは十二月四日、如上二案を日・支・仏・独・露の各政府に示し、且つ英国政府の原則的賛成を得たと通告し、此等の諸国に対して『同様に好意ある考慮』を求めたのであります。此の突飛なる提案に対して、日露両国は固より強硬に反対し、ドイツ・フランス・イギリスもアメリカを支持しなかつたので、此の計画も亦た失敗したのであります。此の計画の背後にもストレートが活躍して居たのでありますが、其の失敗は『イギリスの冷酷な日和見政策』によるものとして激しく英国を非難して居ります。
かやうに手を変へ品を変へても成功しないので、アメリカは今度は列強の力を薙りて目的を遂げやうといふので、具の前年に成立した英米独仏の四国借款団を利用することとし、此の借款団から支那に向つて英貨一千万膀を貸附け尾によつて支那の幣制改革及び満洲の産業開発を行ふ相談を始めたのであります。是は取りも直さずアメリカ一国でほ従来やり損つたから、列強と共同して日本を製肘しようといふ計画であります。
然るに是れ亦日本に取つて幸であつたことは、恰も此の頃に武漢に革命の火の手が上がり、清朝は脆くも倒潰して支那は民国となつたので、此の交渉も中絶の姿となつたのであります。然るに新たに出来た国民政府は、此の四国財団に政費の借款を申込んだのであります.、此の申込みを受けた四国財剛は、日露両国を無視しては支那との如何なる交渉も無益なることを知つて居たので、結局日露両国を加へた六国借私団を作ることにしたのであります。その借款団は一九=二年六月、仏国パリで作られたのでありますが、其の際日蕗両国は共に其の満蒙に於ける各自の特殊権益を損傷されぬことを条件として該財団に参加する旨を声明し、旧四国財団関係者の反対ありしに拘らず、列国政府が此の声明を承認したので、六月二十二日正式に六国借款団の成立を見⇔に至りました。然るに日露両国がかやうな条件の下に参加して来たのでは、思ふやうに満洲進出が出来なくなつたりで、アメリカは翌一九「四年に至り、六国借款団は支那の行政的独立を危くするといふ回実の下に、勝手に之を脱退したのであります。
さて一九一四年は世界大戦の始まつた年であります。日本は日英同盟の誼を守り、ドイツに宣戦して聯合国側に参鞍しました。するとアメリカの最も恐れたことは、此のどさくさ紛れに日本が支那及び満洲に於て、火事揚泥棒を働さはせぬかといふことであつたのであります。そこでアメリカは此の年八月二十一日、無礼極まる通牒を日本に向つ丸発して居ります。その文面は先づ『合衆国は日本のドイツに対する最後通牒につき、意見を発表することを見合はすべし』といふので、殆ど日本を属国視して居ります。日太がドイッに対して最後通牒を発するのに、アメリカから文句をつけられる因縁は、毛頭ないのでありまず。更に『又欧羅巴の戦争の状態如何に拘ちず、曽て声明せる如く、アメリカは絶対に中立を維持することを以て、其の外交政策となす。而して合衆国政府は、日本の意纏について左の如く記録するの機会を有す』と豪語したる後、第一に日本は『支那に於て領士拡張を求めざる』こと、第二に『膠州湾を支那に還附する』こと、第三に『支那国内に重大なる動乱若しくは事件の発生する揚合に於て、日本は膠州湾領域外に於て行動するに先だち、アメリカと協同ずる』ことを要求しているのであります。誠に無礼極まる申分でありますから、日頃アメリカに対して妥協的態度に出ることを習慣として居る日本政府も、此の乱暴なる申分には取合はなかつたのであります。
さうして居るうちに、絶対中立を維持すると声明し、戦争は我等の自尊心の許さぬところだ、We are too pround to fight などと囎いて居りながら、アメリカも遂に参戦したのであります。当初戦争に加はらなかつたのは、勝敗の数が逆謄し難かつたから啄、ありましたが、戦局が段々と進んで聯合国側の勝算が略ぼ明かになりますと、存分に漁夫の利を収めるために、以前の声明などは忘れたかの如く大戦に参加したのであります。いざ大戦に参加して見ると今までのやうに日本と相争つて居たのでは、甚だ心がかりになりますので、一九一七年アメリカからの提案によつて謂はゆる石井・ランシング協定が成立し、アメリカは初めて東亜に於げる日本の立揚を承認したのでありますー『合衆国政府及び日本政府は、領土相接せる国家間には特殊の関係を生ずることを承認す。随つて合衆国政府は日本国が支那に於て特殊の利益を有することを承認す。日本の領土の接壌する地方に於て殊に然りとす。』此の協定によつてアメリカぽ一時日本への意を迎へたのであります。併しながら此の協定は、後に申上げるワシントン会議に於て、苦もなく廃棄されたことは御承知の通りであります。
一方かくの如く日本の意を迎へながら、アメリヵは世界大戦の最中に於ても、満洲に発展する機会さへあれば、無遍慮に自国の立場を作らうとしました。例へば一九一七年ロシア革命によつてツァー政府が倒潰し、列強がシベリアに出兵することになりました時、アメリカは東支鉄道及びシベリア鉄道の管理権を握るといふ強硬なる主張を列強に同つて発したのであります。是も実に乱暴な提案であります。日本は当然之に反対し、結局聯合国特別委員会を作り具の委員会が両鉄道を管理することになりました。
叙上の如き始末で、日露戦争以後に於けるアメリヵの東亜進出政策は、その無遠慮にして無鉄砲なること、近世外父史に於て断じて類例を見ざる所のものであります。それは藪医者が注射もせずに切開手術を行ふやうな乱暴ぶりであります。而も数々の計画が其の都度失敗に終つたに拘らず、些かも恥ぢることなく、些かも怯むことなく、矢継ぎ早に横車を押し来るに至つては、言語道断と申す外ありませぬ。我灯はアメリカのかくの如き気象ど流儀とをはつきりと呑込んで置く必要があります。
さてアメリカは、東亜に対しては今まで申上げたやうな傍若無人の進出を試み、只管、東亜に於ける我国の地位を覆へさうと焦つたのみならず、同じく日露戦争直後から、内に於ては在米日本人の撰斥を始めたのであります。即ち一九〇六年にサンフランシンコの小学校から日本少年を放逐したのを手始めとして、次第に無法なる目本人排斥を行ひ、一九〇七年には数十人のアメリカ人が一団となつて日本人経営の商店を襲撃し、多大の損害を与へるに至つたのであります。小学校から日本児童を放逐する時の桑港学務局の言分は、日本児童の数が多くて収容し切れぬこと、不π跡で不品行だといふこと、米国児童と年齢が違ひすぎるといふことにあつたのでありますが、実際は桑港の全小学横に日本少年は僅に九十三人しか入学して居らず、年齢は多く十四歳以下で、十五歳のものが三十三人、二十歳のものが二人あつただげであり、米人教師の言葉によれば行状は優秀で、最も好ましき生徒であつたのであります。
カリフォルニアに於けるかくの如き日本人排斥は、甚だしく日本国民を激昂させ、輿論は烈しく沸騰したのでありますが、当時の日本の知識階級の中には、排斥は日本人が悪いからだ、日本人は何処へ行つても日本人で、決してアメリカに同化しないから、アメリカから見れば厄介者に相違ないなどと、まるで他国のことのやうに議論する人が多かつたのであります。而して政府も或る程度までアメリカの言ひ分を通して、此の年の十二月に謂はゆる紳士協約をアメリカと結び、向後は在米邦人の父子妻子、及び商人学生を除き、永住の目的を以て、日本人をアメリカに渡航させぬといふ約束をしたのであります。此の日本の譲歩に拘らず、而して其の約束を忠実に守つたに拘らず、カリフヤルニァの在留邦人に対する迫害と排斥とは、年灯激しきを加へ来り、一九一】年には日本人土地所有禁止を目的とする法案が、加州議会を通過するに至つたのであります.、
この排日運動は世界大戦中だけは暫く下火となつて居ましたが、一九一八年十一月に世界大戦終結するや翌年正月から亦た復た排日運動が始められ、加州排日協会は下の五事を断行すぺしと決議したのであります。一、日本人の借地権を奪ふこと。二、写真結婚を禁ずること。三、紳士協約を廃し、米国が自主的に排日法を制定すること。四、日本人に永久に帰化権を与へざること。五、日本人の出生児に市民権を与へざること。加ふるに排日法を制定するため臨時議会を開くべしとの決議案が満揚一致を以て加州議会を通過しました。日本は此の形勢を見て、米国の意を和らぐべく、自ら進んで写真結婚を禁止したのであります。
而も日本の譲歩に益π増長せる加州人は、盛んに排日法制定のために臨時議会を召集すべしと高唱し、加州知事の之を拒絶するや、直接州民投票によつて法案を通過せしめ、遂に邦人の借地権を奪ひ、不動産移転を目的とする法人の社員たることを禁じました。而して一九二四年には、更に徹底的なる排日法が制定せられ、且つ実施せらるるに至り、米国の排日派は思ふ存分に其の目的を遂げたのであります。
但し此の日本人排斥は、決して心あるアメリカ政治家の意思ではなかつたのであります。現に大統領ルーズヴェルトは其の子カーミットに宛てた手紙の中に『予は痛く対日策に悩まされて居る。加州殊に桑港の馬鹿どもは、向ふ見ずに日本人を侮辱して居るが、その結果として惹起さるべき戦争に対して、国民全体が責任を負はねばならぬのだ』と申して居ります。彼は日本人排斥を阻止するために出来るだけの力を尽しましたが、其の事が却つて加州米人を激昂させ、日本人を駆逐すると共に、彼等に味方する非愛国的なる大統領をも放逐せよ之騒ぎ立てたのであります。ルーズヴェルトは、任期終つて職を去るに臨み、予が加州の日本人問題で苦しんだことを思へば、其の他の議会対策の如きは、物の数でなかつたと述懐して居ります。さればこそ彼は其の政治的後継者ノックスに向つて、下の如き賢明なる助言を与へて居りますー『米国の最も重大なる問題は、日本人を米国から閉め出しても同時に日本人の善意を失はぬやうに努めることである。日本人の死活問題は満洲と朝鮮である。理由の如何に拘らず日本の敵意を挑発し、また如何に軽微であらうとも日本の利益を脅威する如き行動を決して満洲に於て取らぬやう注意しなければならぬ』而もアメリカは此の忠告と反対に、満洲に於て常に日本の敵意を挑発し日本の利益を脅威する如き行動を繰返して来たことは、是れまで申上げた通りであります。満鉄中立提議は、ルーズヴェルトから叙上の忠告を受けたノックス国務長官の名に於て行はれたものであります。
第五日
東亜に於ては遮二無二日本の地位を覆へさんと焦り、国内に於ては没義道なる日本人排斥を強行したアメリカは、更に強大なる海軍の建造に着手したのであります。米国に於ける大海軍論の偉大なる先駆者は『歴史に於ける海上権の影響』といふ名高い本を書いたマハン海軍大佐であり之を実行に移したのがセオドル・ルーズヴェルトであります。ルーズヴェルトは一八九八年三月、即ち彼が海軍長官たりし頃、既に此の書を読んだ感激をマハン大佐に書き送って『貴下の著書は、予の心中に漠然として存在して居た思想に、明確なる姿を与へてくれた。予は崇高なる目的のために貴蕪を研究した』と述べて屠ります。而して後年彼が大統領となつた時には『瞳界第「等の海軍建設を議会に要乗することは、大統領たる予の荘厳なる責任である』と豪語して居ります。彼は強大なる海軍なくしては、アメリカは菅に支那の門戸開放主義を有効に維持し得ざるのみならず、モンロー主義さへも守り得ないと力説し、敵海軍主力の撃滅を第一目的とする大戦艦隊建造の必要を強調したのであります。今日のアメリカ海軍政策は、実にルーズヴェルトの精神を継承し、之を実行しっっあるものであります.、従つて彼の誕生日十月二十七日が『海軍日』として記念さカて居るのは、・決して偶然でないのであります。
かやうにしてアメリカ海軍は、ルーズヴェルトの指導の下に強大なる基礎を置かれたのでありますが、一九一四年八月十四日に至り、パナマ運河の開通を見たのであります。此の運河の開通によって、以前ば大西洋岸ハムプトン・ローズ軍港、勝り加州のメーア軍港に到るために、南米大陸を迂回して実に一万三千浬の航海を必要としたが、今や五千浬の距離に短縮され、従つて米国海軍は、其の全力を挙げて大西・太平両洋の執れに於ても作戦し得ることとなり僚も其の艦隊を倍加したと同一の効果を見るに至りました。加ふるに一九一六年には、ダニエル海軍計画又はヰルソソ海軍法として知られる偉大なる海軍拡張計画が着々実行せられ、次で「九「九年には太平洋艦隊の編制を見るに至(たので、太平洋に於けるアメリカの勢力は、俄然として大を加へたのであります。
さて名高きダニエル海軍計画は、戦艦十隻、巡洋艦六隻を基幹とし、百二十隻に近き駆逐艦及び潜水艦を建造せんとするもめで、翌一九一七年より直ちに其の実現に着手しました。此の計画は痛くイギリスを刺戟しましたが、一屈の圧力を以て我国を脅威したことは申すまでもありませぬ。わけても此の計画が米国議会に提出された時、責任ある朝野の政治家が、議会の内外に於て試みた該案支持の説明は、異口同音に東亜問題に於ける日米の衝突を力説したので、我国は此の挑戦に対して必然備ふるところ無きを得なかつたのであります。そのためにダニヱル海軍計画が米国議会を通過した一九一七年、日本は謂はゆる八四艦隊計画を樹て、翌年には更に八六艦隊計画、その翌々年には八八艦隊計画を樹てざるを得なかつたのであります。此の聞の消息は、イギリスの海軍通バイウォーターが其の著『海軍と国家』の中に述べて居る通りでありますi『日本は一年以上に亙って、海上の覇権を握らんとする断乎たる目的を以て行はれたる米国海軍の大規模の拡張を、不安の念を高めっつ眺めて居た。日本の利害は太平洋に限られて居るが、米国が其の力を集注し来れるは、実に其の太平洋に外ならなかつた。一九一九年八月、米国海軍の最強艦隊が新たに編制せられたる太平洋艦隊としてパナマ運河を通つて来た。同時に太平洋艦隊根拠地の計画が発表された。7イリビン、グアム、サモアに於て、大規模の海軍施設が計画された。ハワイの真珠港は、太平洋上のジブラルタルたらしめられんとした。而して日本は、米国のかくの如き海軍行動を以て、自国を自的とせるものと感ぜざるを得なかつた。かくて一九二〇年、日本は名高き八八艦隊計画を立てて之に対抗した』さてかやうにして惹起された猛烈なる製艦競争に於て、我国の造船工業は、実に其の全力を挙げて奮闘したのであります。而して之を船台・船渠・港湾の設備の上から見て、並に造船技術上から見て、我国は優にアメリカを凌駕して居り、金力だけはアメリカに劣るけれど、其の他の点では明白に我国が勝利の地歩を占めて居ました.アメリカは此の競争の容易ならぬ性質を漸く判然と看取し得たのであります。
加ふるにアメリカの海軍計画は、ひとり日本のみならず同時にイギリスの海電拡張をも促さずば止まなかつたのであります。アメリカ如何に富めりとは言へ、日英両国を相手に取つての鰭争は無謀と由さねばなりませぬ。其の上世界大戦によるアメリカの好景気も、いつまで続く筈のものではありませぬ.一朝経済的不況に陥つた時、莫大な経費を海軍に奪はれることは大なる苦痛となります。かくてアメリカは、自ら招ける苦境から脱出すべく、鼓に軍備制限を議する国際会議を召集し、之によつて日英両国の海軍を製肘すると同時に、東亜に於ける日本の勢力を失墜削せ、以て夷洋進出の路を平坦ならしめることを考へたのであります。}九二一・ニニ年のワシントン会議は斯くして開かれ、アメリカは此の会議によつて見事に一石二鳥をせしめたのであります。
ワシントン会議は、ロンドン・タイムス主筆スティードが道破した通り、其の本質に於てまさしく『日米両国の政治的決闘』であつたのであります。而して此の決闘に於てアメリカは、先づ第}に其の最も好まぎりし日英同盟を破棄させて、日本を国際的に孤立させることに成功しました。第二に日本海軍の主力艦を自国並に英国のそれに対し、六割に制限七去ることに成功しました。わが全権は、英米海軍主力艦に対する七割のそれを以て、日本国防の最小限度なりとし、極力米国案に反対したに拘らず、英米両国の共同作戦によって、遂に太平洋西部の防備制限を交換条件として、国防の『最小限度』以下の比率を承諾したのみならず、加藤全権は下の如き驚くべき声明までもしたのでありますーー『日本は過去に於て之れ無かりし如く将来に於ても、其の力に於て合衆国若くは英国と其の程度を同じうする一般的海軍設備を保有することを要求するの意思を有せず』此の声明は頗る英米人の喝采を博したさうであります。
日本を孤立せしめ、其の海軍を劣勢ならしめたアメリカは、更に四国条約の締結によつて、西太平洋に於ける自国領土の安全を図りました。この条約はもともと日英米三国の間に結ばるぺく、その成立と同時に日英同盟を太平洋の藻暦とする魂胆でありましたが、フランスの面目を立てるために之を誘ひ入れて四国条約としたものであります。オランダの如きは西太平洋に於てフランスよりも遥に重大なる利害関係を有して居るに拘らず之を加入させぬところを見ても、此の条約の不真面目さを窺ひ知ることが出来ます。条約の要約の要旨は其の第→条に尽されて居りますー「締約国は、太平洋方面に於ける其の島喚たる属地及び領地に関する各自の権利を、互に尊重すべきことを約す。若し締約国の何れかの闇に、太平洋問題に起因し且つ前記の権利に関する争議を生じ、外交手段によつて満足なる解決を得ること能はず、且っ其の間に現存する円満なる協調に影響を及ぼす虞ある場合には、右締約国は他の締約国の共同会商を求め、当該事件全部を考量調整のため、其の議に附すべし』而して此の条約の第四条に於て「一九一「年七月十三日、ロンドンに於て締結せられたる大ブリテン国及び日本国間の条約は、之と同時に終了するものとす』と明記して日美同盟に最後の引導を渡して居ります。
日本はワシントン会議に於て、山東問題に関してはヴェルサイユ条約によつて得たる権利をさへも犠牲にして、殆んど無条件に之を支那に還附しました。石井・ランシング協定の廃棄にも同意しました。而して支那に関する九国条約が、米・白・英・仏・伊・日・蘭・葡・支の九国間に実にアメリカが欲する通りの内容を以て成立しました。此の条約は「支那の全領土に亙り一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するために努力する』こと、また『友好国の臣民又は人民の権利を減殺すべき特殊権利、又は特権を獲得するために支那の情勢を利用せざる』ことを定め、更に、締約国にして『本条約の規定の適用問題に関係し、且っ右適用に関し討議をなすことを適当なりと認むる事態発生したる時は、何時にても右目的のため、関係締約国開に十分且つ隔意なき交渉をなすべきこと』を取極めたものであり、アメリカは此の条約によつて、少くも形式的には、我国の支那殊に満蒙に於ける特殊権奄を剥奪し去つたのであります。
かくてワシントン会議は、太平洋に於ける日本の力を劣勢ならしめることに於て、並に東亜に於ける日本の行動を卑肘拘束することに於て、アメリカをして其の対東洋外交史上未曾有の戒功を収めさせたのであります。米国が東洋に向って試みた幾度かの猪突帥進出は、その都度失敗に終りましたが、ワシγトン会議に於てぽ、曾て欲して得ざりしことを、一応は成し遂げたのであります。当時アメリカ人が上下を挙げて喜んだのも当然であります。
而もアメリカは之を以ても満足しなかつたのであります。アメリカはワシントン会議によつて日本の戦闘艦を制限し得たのでありますが、それだけでは未だ枕を高くして、眠ることが出来ない。アメリカと日木の如く、極めて遠編な距離を隔てて相対している間柄では、大きい巡洋艦が時として戦闘艦以上の効力を発.揮することがあります。かくてアメリカが主動者となつて、今度は主力艦以外の軍艦制阪の目的を以て召集されたのが、ジュネーヴ会議及びロンドン会議であります。而して此の二つの会議に於ても、日本はワシン下ン会議に於けると同じく、アメリカの前に屈服したのであります。但しアメリカに屈服したのは日本だけではありませぬ。実にイギリスまでアメリカの前に頭を下げ、アメリカよりも劣勢なる海軍を以て甘んずることになつたのであります。これは世界史に於ける非常の出来事と申さねばなりませぬ。大ブリテンは海岸を支配すと高哺して、世界第}の海軍を国家の神聖なる誇りとして来たイギリスが、今や其の王座をアメリヵに譲つたのであります。
茲で我等は心静かにアメリカの国際的行動を観察して見たいと存じます。自ら国際聯盟を首唱し乍ら、其の成るに及んで之に加はることをしない。不戦条約を締結して、戦争を国策遂行の道具に用ゐないといふことを列強に約束させて置きながら、東洋に対する攻撃的作戦を目的とする世界第一の海軍を保有せんとする。大西洋に於ては英米海軍の十対十比率が、何等平和を破ることないと称しながら、太平洋に於ては日米海軍の七対十比率さへ街ほ且つ平和を脅威すると力説する。ラテン・アメリカに対しては門戸閉鎖主蓑を固執しながら、東亜に対しては門戸開放主義を強要する、例へば往年邦人漁業者が、メキシコのマグダレナ湾頭に土地を租借しようとした時、之を以て米国のモンロー主義に反するものとせる決議案が、アメワカ上院を通過して居ります。然るに東亜に於ては、日本の占め来れる地位は、米国がメキシコ又はニカラグァに於て占むる勢力の十分の一にも及ばざるに拘らず、門戸開放主義の名に於て之をしも否定し去らんとするのであります。総じて、是れ無反省にして而も飽くなき利己主義より来る矛盾撞着の行動であります。
アメリカの乱暴狼薙是くの如くなるに拘らず、世界の如何なる一国もアメリカに向つて堂々と共の無理無法を糾弾せんとする者がなかつたのであります。我国の如きもロンドン会議に於て、菅に補助艦比率の十対十を主張して何の庫る所なかりしのみならず、ワシントン会議以後の情勢変化、及び不戦条約の精神を楯として、主力艦六対十の比率変更をさへ要求し得たに拘らず、当初から七対十の比率を以て甘んじ、而も其の主張さヘアメリカのために拒否されて、一層の劣勢を以て甘んじたのであります。総て此等の会議は、簡単に軍縮会議と呼ばれて居りますが、決して単純なる海軍会議ではありませぬ。三十年に亙る執拗極まりなきアメリカの東亜政策全体を顧みることによつて、此等の会議の真実の意味を、初めて正しく理解し得るのであります。
我等は意気揚πとしてロンドン会議を引上げたアメリカ代表スティムソンが此の年五月十三日、上院外交委員会に於て下の如き説明を試み、口を極めて日本代表及び臼木政府を賞揚したことを今日と錐も忘れることが出来ませぬ。-『我等合衆国代表の眼目とせる所は、我が海軍が日本海軍を凌駕すべき製艦計画を完成するまで八年間、日本をして現勢力のままに在らしめる事であつた。六吟、砲巡洋艦に関しては、我等は我が保右量を七万五千噸に拡張するまで、日本は現状を維持すべきことを要求した。我国は、此の条約によりて六吋砲巡洋艦を倍加し得ることになつたに拘らず、日本は現在保有する九万八千噸より僅に二千噸を拡張し得るに過ぎない。日本は本国に於て海軍拡張論者の猛烈なる運動あり、海軍当局ぽ国民の支持後援を得て居た。それ故に予は、日本代表はロンドン会議に於て非常に困難なる仕事を成し遂げたと断言する。我等は、日本が勇敢にも其の敵手が自国を凌駕するまで其の手を縛る如き条約を承認せる事に対し、その代表及び政府に最大の敬意を払ひつつ、会議から引上げて来た。我等は故意に潜水艦を日本と同等にした。之は潜水艦の総噸数を縮小すれば、それだけ我国を有利に導くからである。而して日本は一万六千噸の縮小に同意した。』
ロンドン会義に於ける日本代表及び日本政府は、アノリカ代表から『敵が自分よりも優勢なる艦隊を建造するまで自分の手を縛られるやうな条約に調印した」と言つて、其の『勇敢』を賞めそやされたのであります。その日本代表は、ロンドンから帰ると、日本国民に向って会議の成功を語り、首相は議会に於て、国防の安全を保証して居たのでありまず。痛憤に堪えなかつた私は、我等の槻関誌であつた月刊『日本』の此の年の五月号に『ロンドン会議の意議』と題する一文を発表し、其の末尾を下の如く結んで居ります.、
『ロンドン会議は、若しそれが単独に海軍協定のためのものであるならば多少の譲歩は之を忍び難しとせぬ。唯だそれ四半世紀に亙る米国東洋政策遂行の歴史を観る時、而してその歴史の行程として此の会議を観る時、既にワシントンに於て譲り、いままたロンドンに於て譲るならば、やがて一層大なる譲歩を強要せらるべきこと、火を賭るよりも瞭らかである,繰返して述べたる如く、米国の志すところは、如何なる手段を以てしても太平洋の覇権を握り、絶対的に優越せる地歩を東亜に確立するに在る。そのために日本の海軍を劣勢ならしめ、無力ならしめ、然る後に支那満蒙より日本を駆逐せんとするのである。日本にして若し適当なる時期に於て、是くの如き野心の遂げられるべくもなきことを米国に反省せしむるに非ずば、米国の我国に対する傍若無人は、年と共に激甚を加へ来り、つひに我国をして米国の属国となり果てるか、然らずば国運を賭して之と戦はねばならぬ破目に陥らしむるであらう。。ロンドン会議は日本の覚悟を知らしむる絶好の機会なりしに殉らず、つひに之を逸し去つた。』
第六日
ロンドン会議は、日本現代史に対して深刻無限の意義を有して居ります。第一次世界戦このかた、日本の上下を支配して来た思想は、英米を選手とせる自由主義・資本主義と、ロシアを選手とせる唯物主義・共産主義であります。深く思を国史に潜め、感激の泉を荘厳なる国体に汲み、真箇に日本的に考へ、日本的に行はんとする人々は、たとへあρたにしても其の数は少く、其の力は弱かつたのであります。然るにロンドン会議は、蕾に此等少数の人々のみならず、多数の国民の魂に強烈なる日本的自覚を喚び起す機縁となつたのであります。而してロンドン会議の責任者浜口首相は、遂に国民義憤の犠牲となつたのであります。日本はワシントン会議以来、アメリカとの政治的決闘に於て、常に敗け続けて来たのであります。いまやロンドン会議に勝誇れるアメリカを見て、此の上敗けては遂に息の根が止められるぞといふ大なる憂が国民の魂の底から湧上つて来たのであります。それは我等の先輩が黒船の脅威によつて幕府も忘れ各自の藩も忘れて尊皇擁夷のために奪ひ起つたと同じことで、米国国務長官スティムソンは、百年以前にベルリが日本に対して勤めた同じ役割を勤めたのであります。
ロンドン会議に至るまで、日本はアメリカの東洋進出に対して常に譲歩して来たのであります。そのアメリカの政府が余り傍若無人であつたために、アメリカの政治家のうちにさへ、日本の憤激を17つて戦争を誘発せぬかと心配した人が少くなかつたほどであります。例へば加州に於ける排日問題の時でも、大統領ルーズヴェルトは、日本人は斯くの如き侮辱を甘受ずる国民でないと信じて居たので、フィリピン陸軍司令官ウッドに対し、何時日本軍の攻撃を受けても戦ひ得るやう準備せよといふ命令を発し、而も万一日米戦争になればフィリピンは日本のものとなるであらうと甚だ憂欝であつたのであります。そして心配に堪へ兼ね、フィリピン派遣といふ名目で陸軍長官タフトを東京に寄越したのでありますが、タフトが来て見ると、国民こそ激しく噴慨して居りましたが、政府は毛頭左様なことを考へて22居りませぬ。そこでタフトは東京から『日本政府は戦争回避のために最も苦心を払ひつつあり』と打電して、ルーズ.,巻ゴルトの愁眉を開かせて居ります。其の後十数年を経て、移民閏題が再び日本国民を憤激させた時も、余りに日本のこ・箒体面を傷つけては戦争になるかも知れぬと心配した米国政治家が少くなく、当時の駐日米国大使モリスの如きも其の蝶一人であります。但し此の時も日本政府は、婁に訴へても国家の面目を保たうなどとは夢にも考へていなかつたの醐であります。最後に一九三四年埴原大使をして、無法に日本人排斥法を通すならば『重大なる結果』を生ずるだらう却と抗議させましたが、却つて上院議魯.ジのために冒本はアメリカを脅迫するつもりか』と開き直られ、もともと覚悟を決めての抗議でなかつたのでありますから、結局如何なる結果をも生ぜずに済みました。
然るにロン下ン会議以後、事情は全く一変したのであります。政府は依然として英米に気兼ねしながら、国際的歩・みを徐々に進めんとしたに拘らず、国民は日本国家の根本動向を目指して潤歩し始めたのであります。政府はロンドン会議に於て低く頭を下げたに拘らず、国民は昂く頭を擾げて、アメリカ並びに全世界の前に、堂々と進軍を始めたのであります。此の日本の進軍は、実に満洲事変に於て其の第「歩を踏み出したのであります。
一九二八年、父張作霧の後を継いで満洲の支配者となれる張学良は、南京政府及び多年に亙るアメリカの好意を背景として、東北地帯に於ける政治的・経済的勢力の奪回を開始したので、満洲に於ける日本の権益に対する支那側の攻撃は年と共に激化し、排日の空気は全満に溢らんとするに至りました。もと満洲に於ける日本の権益は、ボーッマス条約に基くものであります。若し当時日本が起つてロシアの野心を挫かなかつたならば、満洲・朝鮮は必ずロシァの領土となつたであらうし、支那本部もやがて欧米列強の狙の上で料理されてしまつたことと存じます。日露戦争に於ける日本の勝利は、蕾にロシアの東洋侵略の歩みを阻止したのみならず、白人世界征服の歩みに、最初の打撃を加へた点に於て、深甚なる世界史的意義を有して居ります。此の時以来日本は、朝鮮・満洲・支那を含む東亜全般の治安と保全とに対する重大なる責任を荷ひ、且つ其の重任を見事に果たして来たのであります。其の閤に如何にアメリカが日本の意図を理解せず、日本の理想を認識せず、間断なく乱暴狼籍を働きかけて来たかは、三日に亙つて述べた通りであります。此のアメリカの後援を頼み、南京政府の排日政策に呼応せる満洲政権は、遂に暴力を以て日本に挑戦し来つたのであります。それは取りも直さず一九三一年九月十八日の柳条溝事件であります。而して時の政府が断じて之を欲せざりしに拘らず、日本全国に湧濟として溢り初めた国民の燃ゆる精神が、遂に満洲事変をして其の行くべきところに行き着かしめ、大日本と異体同心なる満洲国の荘厳なる建設を見るに至つたのであります。
我等は満洲事変が、斯くの如ぎ事変の発生を最も憎み且つ恐れて居た幣原氏が、日本の外交を指導しつつありし時代に起つたことを考へて、歴史の皮肉を想はざるを得ぬものであります。併し乍ら満洲事変は、決して日本に取りて不利なる時期に起つたのではありませぬ。運命は明かに日本に向って微笑して居たのであります。即ち此の事変の起つた一九三一年の夏の末には、世界を挙げて大不景気の影響を深刻に感ぜざりしは無く、わけてもイギリスとアメリカは、欧羅巴及び本国に於て、経済的混乱に陥って居たのであります。即ち此の年は信用機関の没落、イギワスの金本位制離脱、ブーブー大統領のモラトリウムなど、欧米の政府及び国民をして、途方に暮れしめた重大問題の頻発した年であります。さればこそスティムソンは、共の著『極東の危機』の中で『若し誰かが、外国の干渉を受けずに済むと考へて、満洲事変を計画したとすれば、無上の好機会を掴んだものと言はねばならぬ」と申して居ります.満洲事変はそれほど国際的に好都合の時に起つたので、日本のためには甚だ幸運であつたと存じます。
但しアメリカは勿論手を換いて見て居るわけはありませぬ。国務長官スティムソンは事変勃発の四日後、即ち九月二十二日に駐米大使を経て謂はゆる『熱烈なる覚書』を日本政府に交付して居ります。その中で彼は『過ぐる四日問濡闘に於て展開せられっっある事態には、彩しき数の国々の道徳、法律及び政治が闘係して居る』と、威丈高になつて居ります。其の後に至り満洲事変に対して執つた国際聯盟の行動は、「としてスティムゾンと相談しなかつたものがなく、また其の指図に由らぬものがなかったのであります。当初スティムソンは、幣原外相に大なる期待をかけて居ました。国際聯盟、四国条約、九国条約、不戦条約、総じて此等の世界現状維持のための約束に欣然参加し来れる日本の外務省は、此度とてもアメリカの意図を無視した行動を取るまいと考へて居たのであります。これは決して私の想像でなく、スティムソン自身が同年九月二十三日、即ち『熱烈なる覚書』を日本に叩き付けた翌日の日記に『予の問題は、アメリカの眼が光つて居るぞといふことを日本に知らせること、及び正しい立場に在る幣原を助けて彼の手によつて事件の処理を行はしめ、之を如何なる国家主義煽動者の手にも委ねてはならぬといふことである』と書いて居ります。スティムソンは、之も彼自身の言葉によれば、日本の外務大臣が日本に燃え上つた国家主義の炎々たる焔を消し止め、過去及び現在の征服を中止して、日本をして九国条約及び不戦条約に再び忠実ならしむるべきこと夕希望し、且つ其の可能を信じて居たのであります。而して幣原外相も恐らく此の希望に添ひたかつたに柑違ありま廿んが、事変の発展はスティムソンの希望を完全に打砕き、彼は矢継ぎ早に『不愉快なるニュース』のみを受取らねばならなかつたのであります。而して此の年の十二月に民政党内閣が倒れ、翌一九三二年一月、日本軍が錦州を占領ずるに及んで、スティムソンは遂に『談合によつて満洲問題を解決せんとした予等の企図は失敗に終つた』と告白して居ります。而して今度は『満洲の平和撹乱者に対して、全世界の道徳的不同意を正式に発表する手段を取り、若し可能ならば日本の改心を要求する圧力となるべき制裁を加へる』と決心したのであります。
彼は此の目的のために国際聯盟を利用したのであります。国際聯盟は、スティムソンの属する共和党とは反対の耐党、即ち民主党の大統領ヰルソンを生みの親とし、而も共和党のための勘当を受けた子供であります。然るに今や土和党の国務畏官が、自ら勘当した子供を日本制裁のために働かせようとして、一切の鞭擁と激励とを与へたのであります。彼は一九三二年春、カリフォルニアとハワイとの間に於て、全米国艦隊の大演習を行はしめ、演習終了後も之を太平洋に止めて日本を威嚇しました。而して一方絶えずロンドンとジュネーブに圧力を加へ、此の年三月十二日には、聯盟総会をして二月十八日に独立を宣言せる満洲国に対し、不承認の決議をなさしめました。而して此の年十一月末には、国際聯盟は謂はゆるリットン報告に基いて、日本に対して満洲を支那に返還せよといふ宣告を下したのであります。其の後此の宜告を続つて長い劇的な討論が行はれましたが、遂に我が松岡代表が『欧羅巴やアメリカの或る人πは、いま日本を十字架にかけんとして居る。而も日本人の心臓は、桐喝や不当なる抑制の前には鉄石である』と叫んで、日本の決意を世界万国の前に声明したのは、英米に対する宜戦詔勅の換発せる十二月八日と、日も月も同じ十年前の十二月八日であります。而して翌一九三三年二月十四日、リットン報告書が遂に聯盟総会によつて採択せらるるに及んで、松岡代表は即刻会場を退出し日本は立どころに国際聯盟を脱退したのであります、国際聯盟は言ふまでもなく世界旧秩序維持の機関であります。それ故に我々は、復興亜細亜を本願とすべき日本が、世界の現状即ちアングロ・サクソンの世界制覇を永久ならしめんとする斯くの如き機構に加はることに、当初より大なる憤りを感じて居たのであります。然るにスティムソンの必死の反日政策が、日本をして国際聯盟より脱退せしめる直接の機縁となつたことは、是れ亦歴史の皮肉と申さねばなりませぬ。
さてスティムソンは、一九三二年十二月下旬、次期大統領に選ばれたフランクリン・ルーズヴェルトから、外交政策に就いて柑談したいからといふ招待を受け、紐育ハイド・パークのルーズヴェルト邸で、長時間の会談を行ひましたが其の後数日を経てルーズヴェルトは、米国の対外政策に於て両者の意見は完全に一致したことを発表して居ります。従つて現大統領の東亜政策又は対日政策が、スティムソンのそれと同一なるぺきことは、既に此の時より明白であつたのであります。スティムソン政策の拠つて立つところは飽までも九国条約を尊重し、之に違反する行動は総て不法なる侵略主義と認め、徹底して之を弾劾するといふのであります。従つて此の政策を完全に継承せるルーズヴェルトは、今回の支那事変に際しても、当初より日本の行動を不法と断定し、支那の抗戦能力強化夕二貫不動の方針として有らゆる援助を蒋介石に与へて来たのでありまず、此の事はルーズヴェルトが、一九三七年十月五日、シカゴに於て試みたる最も煽動的な演説の中に、極めて露骨に言明されて居りますー『条約を躁躍し、人類の本能を無視し、今日の如き国際的無政府状態を現出せしめ、我等をして孤立や中立を以てしては之より脱出し得ざるに至らしめし者に反対するためにアメリカはあらゆる努力をなさねばならぬ」而してまさしく此の言明の通り、日米通商条約を廃棄し、軍需資材の対日輸出を禁止し、資金凍結令を発布して、一歩一歩日本の対支作戦継続を不可能ならしめんとすると同時に、蒋政権の抗戦能力を強化するためには、一切の可能なる精神的並びに物質的援助を吝まなかつたのであります。
日本は若しアメリカが東亜に於ける新秩序を認めさへすれば東亜に於けるアメリカの権益を出来るだけ尊重し、且つアメリカの謂はゆる門戸開放主義も、此の新秩序と両立し得る範囲内に於ては十分に之を許容する意図を有つて居たのであります。然るにアメリカは、東亜新秩序建設を目的とする我国の軍事行動を以て、飽までも九国条約・不戦条約に違反する侵略行為となし、頑として其の見解を改めざるのみならず、東亜新秩序はやがて世界新秩序を意味するが故に、斯くの如き秩序ーアングロ・サクソン世界制覇を覆するに至るべき秩序の実現を、その根抵に於て拒否するのであります。而も斯くの如きは決して現大統領の新しき政策に非ず、実にアメリカ伝統の政策であります。即ちシュウォードによつて首唱せられ、マハンによつて理論的根拠を与へられ、大ルーズヴェルトによつて実行に移された米国東亜侵略の必然の進行であります。此の伝統政策あるが故に、日米両国の衝突は遂に避く可らざるものであり今や来る可き日が遂に来たのであります。
弘安四年蒙古の大軍が多々良浜辺に攻め寄せた時、日本国民は北条時宗の号令の下、立どころに之を撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威せる時、東条内閣は断乎暦懲を決意し、緒戦に於て海戦史振古未曾有の勝利を得ました。敵、北より来れば北条、東より来れば東条、天意か偶然か目出度きまはり合はせと存じます。熟々老へ来れば、ロンドン会議以後の日本は、目に見えぬ何者かに導かれて往くべきところにぐんぐん引張られて往くのであります。此の偉大なる力、部分部分を見れば小さい利害の衝突、醜い権力の争奪、些灯たる意地の張合ひによつて目も当てられぬ紛糾を繰返して居る日本を、全体として見れば、何時の間にやら国家の根本動向に向つて進ませて行く此の偉大なる力は、私の魂に深き敬慶の念を喚ぴ起します。私は此の偉大なる力を畏れ敬ひまするが故に、聖戦必勝を信じて疑はぬものであります。
英国東亜侵略史
第一日
地中海が商業交通の中心であり、欧羅巴の商権がイタリーの町々とハンザ同盟の手に握られて居た頃のイギリスは欧羅巴の片隅に位する弱小なる国家にすぎなかつたのであります。然るにアメリカ大陸の発見及び印度航路の発見が大西洋を以て第二の地中海たらしめるに及んで、運命はイギリスに向つて微笑し始めたのであります。イギリスは此の重大なる歴史の転回期に於て、一面には群島内部に於ける国家的統一を成就し、他面には是までのフランス侵略政策を棄てて其の国是を海洋並びに海外に対する発展に向け始めたのであります。而して之と共にイギリスの地理的特徴が、俄然として其の意義を発揮し来り、世界制覇のための最も有利なる条件となつたのであります。
まづイギリスは海によつて囲まれた島国でありますが故に、外国との直接の軋礫を免れ、欧羅巴大陸諸国の如く、重大なる犠牲を国境戦争に払ふ必要がなかつたので、かくして節約された国力を、存分に海上の活躍に用ゐることが出来ました。而して其の位置は、一面に於て欧羅巴といふ選ばれたる大陸に面して居り、エルベ河よりセーヌ河に到る大陸の大きい河灯は、総てイギリスに向つて注いで居ります。而して他面に於ても同じく選ばれたる海大西洋に面し、その著しく発達せる海岸線は、此の国のために無数の港湾を提供して居ります。かくしてバスコ・ダ・ガマ及びコロムブス以前に於ては、僅に欧羅巴の片隅の一歩哨に過ぎなかつた此の国が、今や欧羅巴大陸の運命を海洋の上に展開する自然の開拓老となつたのであります。
かくの如くイギリスの地理的特徴が、まつ列国に先んじて世界的舞台に活動する機会をイギリスに与へたのでありますが、経験主義・個人主義・功利主義を以て其の本質とするイギリスの国民性も、また此の発展に好箇の条件となつたのであります。ルーテルの宗教改革は、ローマ教会の束縛から個人を解放したものでありますが、イギリスの徹底せる個人主義的国民性は、此の宗教改革が生んだ個人解放の成就のための最も都合よき下地となつて居ります。此の国民性のためにイギリスは、其の他の欧羅巴諸国が尚ほ未だ教会と僧侶との束縛に対して悪戦苦闘して居る間に、国民として逸早く中世的権威を破壊し、諸国に先んじて自由に其の力を世間的活動に用ゐたのであります。のみならず飽までも事実と経験とを重んずる国民性でありますから、エマソンが申して居る通り、常に想像のために戦はずして実際の利益のために戦ひ、その精力を実際的活動に向つて集注させたのであります。其の上イギリスの気候風土がイギリス人の体力を健全強壮ならしめ、堅忍不抜の意志を鍛錬し、善戦健闘の精神を養成して居ります。
また彼等に取つて甚だ好都合であつた事は、ピ晶ーリタンの教義が、彼等の世間的勤勉や金儲けに対して、宗教的・道徳的基礎を与へてくれたことであります。単にイギリスと言はず、総て北方に国を建てる民は、険悪なる風土と戦つて自己の生存を維持し発展させねばなりませぬ。そのためには栄養に富む食物、温暖なる着物、堅牢なる家庭が必要であります.従つて営ゼ孜々として利を営むことが、一個の美徳と考へられるやうになるのであります。ピューリタンも其の通りで、此の宗教は其の名の如く一面にはイギリス人に克己制欲の生活を要求すると同蒋に、他面には勤勉と営利の精神を鼓吹したのであります。それ故にイギリス人は、道徳的義務を遂行する心持で金儲けに身を委ねることが出来ました。キリストは、神と黄金とに兼ね仕へることが出来ないと申しましたが、イギリス人は安んじて神と黄金とに兼ね仕へることが出来たのであります。かやうにしてイギリスは、国を挙げて営利に没頭し、その経済的勢力を海外に扶植して行つたのであります。而して其の勢力圏の驚くべき拡大に伴ひ、民族としての自尊心と自信も次第に昂まり、限りなき膨脹的本能と、之に相応する発展的性質を養ひ上げて、つひに古代ローマ帝国以来、未だ曽て見ざる支配民族となつたのであります。
今日のイギリス人は、口を開けばイギリスの世界的覇権が平和の間に確立されたかの如く主張しますが、それは偽りであります。慨界制覇の志を抱いたのは、決してイギリスのみのことでなく、他の欧羅巴諸国も同然でありましたから、イギリスは之と死活の戦を戦ひ通して其の目的を遂げたのであります。唯だ此処に注意すべきことは、世界制覇のための戦が、海洋の上で又は海外に於て戦はれたよりも、寧ろ多く欧羅巴大陸に於て行はれたこと、及びイギワスのために戦つたのが、英国自身の軍隊よりは、寧ろ戦費をイギリスに仰いだ同盟国の軍隊であつたといふことであります。而してイギリスが常に其の敵として戦つたのは、海上並びに海外に於ける最も強く最も恐るべき競争国であり、力弱い競争者に対しては原則として親善なる態度を取り、攻撃の全力を最も強大なる敵国の上に加へて来たのであります。而も一旦之を撃破して最早危険ならざる程度に打ちのめした後は、努めて之と親善なる関係を回復し、来るべき機会に更に新しき競争国と戦ふ場合に、却つて之を自国の同盟者たらしめるやうにしたのであります。近代英国が第一に選んだ相手はスペインでありましたが、一五八八年、これは我国では羽柴秀吉が太政大臣となつて豊臣と云ふ苗字を名乗り始めた年でありますー此の年にイギリスは英国海峡に於ける三日の奮戦によつて、見事敵の無敵艦隊を粉砕し、徹底してスベイン制海権を覆し、百年に亙るイベリア国民の優越を没落せしめて、鼓にイギリス海上発展の第一の基礎を築いたのであります。
次にイギリスは第二の敵手としてオランダを選びました。其の戦はオリブー・クロムウスルの雄渾なる精神と鉄石の意志から送つた一六五一年の航海条例によつて最も無遠慮にオランダに対して挑まれ、一六五二年から一六七四年の間に行はれた三度の戦争によつて、是まで『海洋の幸福なる所有者』と誕はれたオランダは、其の優越なる制海権を苦もなくイギリスに奪はれてしまったのであります。
オランダを雌伏させたイギリスは、第三の敵手としてフランスを選びました。イギリスは、一六八八年から一八一五年に至る百二十六年のうち、実に六十四年間は戦争を以て終始して居ります。地球上のいつれの国民も、是ほど頻頻と戦争に参加したものはありませぬ。此の間の数4の戦争は、その本質に於ては悉く欧羅巴大陸並びに植民地に於けるイギリスとフランスとの争覇戦であります。而して此の百年を超えたる長き英仏争覇戦は、ナポレオンの最後の敗戦によつて、遂にイギリスの勝利を以て終りを告げたのであります。
かやうな次第でありますから第十九世紀の英国史は、もはや前世紀の歴史とは面目を異にし、欧羅巴列強との争覇戦は終りを告げ、海上に於ては世界無敵の覇者となり、植民的発展に於ては非常なる成功を収めたので、其の後ロシアが中央亜細亜からアフガニスタンに追つて印度を脅すまでは、世界政策に於て殆んど無人の野を瀾歩する有様であつたのであります。即ち此の間にイギリスは、先づ印度全部を事実上の領土として居ります。一八二六年から一八八六年に至る間にビルマを併合して居ります。印度航路を確実に守るために、一八三九年には紅海の入口のアデンを、一八五七年には同じくペリム島を占領して居ります。=〈四二年には阿片戦争によつて香港を支那から奪ひ、東亜侵略の根城を作つて居ります。地中海では一八七八年キプロス島をトルコから奪ひ、太平洋上では濠洲全部及び二晶ージランドを英国国旗の下に置きました。阿弗利加では次第に領土を南部及び西部に拡めました。そして一八七五年には、実に咄薩の間に僅に四千万円を以てエジプトからスエズ運河の株券を買収して居ります。此の運河はフランス人レセップスの不屈不擁の努力によつて出来たもので、イギリスは実に悪辣極まる方法を以て其の仕事を妨害したのでありますが、一旦竣工すると其の実権を自国の手に収めたのであります。そして一八八二年には、エジプトに起れるアラビ・パシャの民族運動による国内不安を口実としてアレキサンドリア港を砲撃し、之を端緒に積極的にエジプト侵略を始め、容易に其の目的を遂げました.、而して最後に南阿弗利加のプール人の両共和国を征服し、戴にイギリス世界帝国の最後の建設を終つたのであります。
それ故に第十九世紀の英国史は、もはや覇権獲得の歴史ではなく、その強化、その確保、その維持の歴史であります.従つて一九一四年の迂界大戦に至るまで、イギリスは一たびも決定灼戦争を行・浄必要がなかつたのであります。併しながらイギリスの伝統的政策そのものは、第十九世紀に於ても何等の変更を見る筈はありません。従前と同じく萄くも新興国家が薪然頭角を現はさんとする場合は、イギリスは直ちに容赦なき一撃を之に加へ、又は強硬に之を脅迫して、その野心を放棄せしめずば止まなかったのであります、クリミア戦争及び日露戦争後のロシア、或はファショダ事件以後のフランス、皆な此の政策の姐の上にのせられたのであります。而して近代ドイツの勃興が、欧羅巴の勢力均衡を覆七、やがてはイギリス世界幕府の顛覆者たらんとする惧あるに及んで、イギリスは第四の敵手としてドイッを選び、まつ所謂包囲政策によつて之を孤立に陥れ、次で英独争覇戦としての第一次世界大戦となつたのでありますが、此の戦争に於ても、イギリスは一旦は勝利を得たのであります。
ドイツに打勝てるイギリスは、国際聯盟によつて戦後の世界を釘付にし、之によつて自己の欲する世界秩序を維持しようと努めました。わけてもボールドヰン内閣の外相イーデンは、国際聯盟を強化して謂はゆる『集団保障』の体制を築き上げるために最も熱心に努力したので、此の政策はイーデン外交と呼ばれて居ります。然るに満洲事変によつて日本が先づ聯盟から脱退しました。次でエチオピア問題が起つた時に、イギリスは国際聯盟規約を利用して経済的圧道をイタリーに加へ、大なる期待を以て集団保障の効力を実地に験して見たのでありますが、御承知の如く惨憺たる失敗に終つたのであります。当時ボールドヰン内閣の蔵相であつたチャムバレンは此の実情を見て、「九三六年の或る会合に於て『国際聯盟至上主義は、エチオピア問題の経験によつて最早維持されなくなつた。重大なる国際聞の問題を聯盟に託することは、考へ直さねばならぬ」といふ意見を発表して居ります。それでボールドヰンの後を受けて自分が内閣の首班になりますと、聯盟至上主義のイーデン外相を犠牲にし、集団保障制の代りに謂はゆる謡和政策を樹立することによつて、イギリスの安定を図らうとしたのであります。協和政策とは、欧羅巴の四大国、即ち英・仏・独・伊の和解によつて、欧羅巴の平和を維持せんとしたものであります。此の目的のためにチャムバレンは、あれほど反目して居たムッソリー二に親しく手紙を送り、過去は一切水に流して、地中海に於ける二大国として協調したいといふ希望を述べ、またロンドンデリー侯爵・ロシャン侯爵などをドイツに派遣して、ヒトラーやゲーリングと懇談きせて居ります。それでイギリスは、ヒトラーがオーストリアを併合した時でも、また、チエッコ問題の時でも、ドイツに向つて武力を用ゐることを避け、世界に固唾を呑ませたミュンヘン会議も、結局イギリスの譲歩によって協定が出来たのみならず、協定調印と同時にヒトラーとチャムパレンの両人が署名して次の如き共同声明をして居ります。即ち『英独両国が再び相互に相戦ふ意志のないことは、先に両国間に成立したる海軍協約、及び今蝕に調印を了へたミュンヘン議定書で明白である。我々両入は、英国民もドイツ国民も、両者間の問題は総て相談によって解決すべく、これが両国民共通の意志であることを声明する』といふのであります。
然るにチャムバレンの協和政策は、ヒ予ラーが一晩の間にチエッコの残部を併呑し去るという放れ業を敢てしたので、脆くも失敗に帰しました。此の時以来チャムバレンは、英独両国は断じて両立出来ぬといふ信念を堅め、妓に対独決戦の覚悟を決めたのであります。そのために唱へられたのが謂はゆる平和戦線であります。平和戦線といふのは武力的に極めて強力なる一個の結合を作り、此の強大なる武力結成の前に、侵略国家をして其の野心の実現を断念させようとする仕組であります。かやうにしてイギリスは先づ自国軍備の強化に全力を注ぎ、イギリスを中心としてドイツよりも遥に強力なる武力群を結成してドイツに臨み、可能ならば戦はずし之を屈し、止むなくば今度こそ一戦を交へる覚悟で進んで来たのであります。一昨年のこと、北洋漁業がイギリスとの間に、鮭罐詰三千万ケースの売買契約が出来たといふので、農林省では之も貿易振興政策の結果だと吹聴して居たことを記憶して居りますが、是は取りも直さず英独戦争を覚悟しての食糧貯蔵に外ならなかつたのであります。事情斯くの如くなるが故に、両国の戦争は避く可からy、、る運命であつたと申さねばなりませぬ。
今日の英人は好んで平和を口にし、自ら平和の愛好者と称へて居ります。併しながら少くとも過去の英人は、ミルトンが『汝等偉大にして好戦なる国民よー」と呼べる如く、天国に於て奴隷たるよりは、地獄に於て主人たらんと豪語し来れる好戦敢為の民であり、且っ其の世界制覇は、執拗無比の戦闘的精神によつて成就され、現に必死のヵを揮つて之を守らうとして居るのであります。而もイギリスが、ドイツと共に日本を敵とするに至つたことは、其の運命の尽きる日が到来したことであります。イギリスの運命尽くることは、世界が解放されること、殊に亜細亜が解放されることであります。以上私はイギリス世界制覇の径路を述べ終り明朝より其の東亜侵略の跡を辿らうと存じます。
第二日
イギリス帝国主義の権化ともいふべきカーゾン牌は、其の著『ベルシァ問題』の中で、若し英国が一朝印度を失ふならば、断じて世界帝国の地位を保つことが出来ないと明言して居ります。また、ホーマー・りーといふ極めて特色あるアメリカの一軍人は『アングロ・サクソンの世』と題する著書の中で、『イギリスが印度を喪ふといふことは、英国の領土内に、アングロ・サクソンのあらゆる血と火と鉄とを以てするも、到底破れたる両端を接ぎ合はせることの出来ぬ一大破綻の発生を意味する』と申して居ります。また、今一人のスナサレフといふ人は、『印度』といふ著書の中で「若し此の不幸蒙昧なる印度のために、自由の勝利を告げる鐘が鳴るならば、その次の瞬間に、歴史の時計は海の女王の死を世界に告げることであらう。そしてイギリスは、僅に本店をロンドンに有する一個の世界銀行となつてしまふであらう」と申して居ります。まことにこれらの人々の申す通りで、若しイギリスが印度を失へば、明日から第三等国となるのであります。印度が英国に取つてそれほど大切な意義を有するのは、単に無限の天産物と無数の人口を擁して居るからではありません。印度は実にイギリス資本の此の上もない投資の場所であり、志あるイギリス青年の立身出世の舞台であり、英国商品の無二の市揚であり、莫大なる商業の中心であり、重要なる海上の聯絡点であり、軍隊の駐屯処であり、最も必要なる海軍根拠地であります。イギリス人の中には、曽てはシェークスピアを失ふよ㌍、は寧ろ印度を失はんと申した人もありましたが、左様な時代は最早過ぎ去り、今日のイギリスは、百人のシェークスピアを失つても決して印度は失つてならぬと苦心して居るのであります。第十九世紀前半以来、英国外交の根本政策は印度保有の一事に存し、イギリスは第一に如何にしてイギリスより印度に到る海路又は陸路、可能ならば海陸両路の支配権を確保すべきか、第二に如何にして印度自身を防衛すべきかといふことに、其の全心全力を注いで来たのであります。
併しながら、イギリスは決して、当初から印度の重要性を明かに認識して、印度征服を企てたのではありません。イギリス人が初めて印度を目指して来たのは、簡単明瞭に金儲けのためであったのであります。印度航路を初めて開いたのは、ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマでありますから、莫大に利益ある東洋貿易は、殆んど百年の間、ポルトガルの独占であつたのであります。ポルトガルは第一に、当時欧羅己の精神的君主たりしローマ法王から、東洋に対する政治的・経済的・宗教的の絶対優越権を与へられて居たのみならず、若し他国が此の独占権を脅す揚合は、武力を以て之を倒すだけの海軍を有つて居たのであります。然るに、イギリスは、エリザベス女王の時代には、最早カトリック教を棄てて新教に帰依して居たので、ローマ法王に遠慮する必要がなくなつた上に、海軍も次第に強大となつて、一五八八年には、スペイン無敵艦隊を撃滅するまでに至つたのであります。
此のイギリス海璽の基礎を築き上げたのは、ジョン・ホーキンスやフランシス・ドレークの如き、大胆勇敢なる海賊即ちヒーロー・バッカニーアであります.、イギリスの海賊は第十五世紀頃から音に聞こえて居りましたが、第十六世紀になりますと益々盛んになつたのみならず、掠奪の相手はスペインやポルトガルの船でありましたから、海賊的行為は愛国的行為となり、イギリスの船長は数門の火砲を備へた船に乗つて、東洋貨物を満載したポルトガル船や、金銀を満載してアメリカから帰るスペイン船を掠奪することを公然の商売として居たのであります。世の中に是程儲かる商売はなかつたのであります。例へば只今申上げたホーキンスはプリマスの舟乗りの枠でありましたが、スペイン領アメリカへの第→回航海によつて、一躍ブリマス第一の富豪となり、第二回航海から帰つて実にイギリス第「の富豪となつた之言はれて居ります。フランシス・ドレークの如きも、一五七七年にイギリスを出帆し、行く先厚で強盗を働きながら、世界を「周して「五八〇年にイギリスに帰り着いたのでありますが、其の途々掠奪して来た貨物の価は実に約二億フランに達したと言はれて居ります。エリザベス女王も、ドレークから少からぬ分前を貰って、大いに喜んで居ります。この話がスペインに伝はると、スペイン王は非常に憤慨してロンドン駐在スペイン公使をして厳重なる抗議を提出させました。するとエリザベス女王は、スペイン公使をドレークの船の甲板に連れて行つて、厳然としてドレークに向ひ、スペイン人は汝を海賊だと申すそと叱りつけ、それから甲板の上に彼を鷺かせ、悠然とナイトの爵位を賜はる時の接吻を彼に与へて、『いざ起て、サー・アランシスよ』と申したことは、名高い話であります。即ち女王は海賊である平民フランシスを、サー・アランシXに取立てたのであります。
かやうな次第でイギリス人はスベイン勢力の没落以龍から、ポルトガルの独占を犯して東洋貿易に参加しようと苦心して来たのでありますが、一五八入年にスペイン無敵艦隊が、ホーキンス、ドレーク等の海賊を中心とせるイギリス艦隊のために撃滅されたので、印度航路上の最大の障磯物がなくなつたのみならず、東洋発展に於て一歩イギリスに先んじたオランダが、スペイン、ポルトガルに代つて東洋貿易の新しき独占者たらんとする形勢があるので、一群のロンドン商人が結束して、一五九九年の十二月三十一日、資本金僅に六十八万膀を以て、東印度会社を組織し、エリザベス女王から『喜望峰よりマゼラン海峡に至る国々島マと、向ふ十五年間自由に且つ独占的に通商貿易を営むことを得』といふ特許状を与へられ、翌一六〇〇年ー此の年は日本では天下分目の関ケ原合戦が戦はれた年です1此の年から直ちに活動を開始したのであります。この小さい会社が、後にイギリスのために『王冠に輝く燦たる宝玉』と讃へられる印度を征服し去らうとは、当時は何人も考へなかつたことであります。
さてイギリス東印度会社は、同じく東洋貿易を目的として一六〇二年に創立されたオランダ東印度会社と相並んでまつ東洋に残存して居たポルトガル勢力と戦はなければならなかつたのでありますが、一.時あれほど多くの英雄を輩出せしめ、あれほど盛大を極めたポルトガルも一旦下り坂になると国力俄に蓑へ、到底新興両商業国即ちイギリス、オランダの敵でなく、十年ならずして勝敗の数は早くも決してしまつたのであります。而してポルトガル勢力敗退後は、必然新興両国自身の間に激しき競争が行はれました.、当時一番有利であつた東洋貨物は丁子・ニクヅクなどの香料でありましたが、その主なる産地は香料群島即ち南洋諸島であります。それ故に両国とも、印度本土を第二にしてまつ}・レー祥島に鏑を削り、此の貴豊なる香料産地を独占せんとしました。然るにオランダ東印度会社は、其の資木はイギリスの会社の倍額であり、而も国家の強力なる後援があつたので、此の角逐に於て苦もなくイギリスを圧倒し南洋諸島の・三人公となつたのでありますが、此の事が他日却つてイギリスの幸ひにならうとは、当時何人も夢想せぬ所であつたらうと思ひます。
イギリスは先づ印度の西海岸に於て、有力なるポルトガル艦隊を撃破して、一六=一年にスラートに商館を置き、印度本土に於ける最初の根拠地を置きました。}六二〇年にはペルシア国王と租結んで、ポルトガルの東洋に於ける最も重要なる根拠地、ペルシア湾頭のオルムスをペルシアのためにポルトガルから奪回し、その報償としてオルムスに域塞を築くことを許され、また此の同じ年に、コロマンデル海岸のマドラスを土人君主から買収し、叢にも城塞を築いて、印度東海岸に最初の根拠地を置きました。其の後一六六八年に、イギリス国王チャールスニ世から、一年僅に十諺の地代で、東印度会社は、ボムベイを借受けたのであります。ボムベイは此の時より約八十年以前にポルトガル人が開いた印度第「の良港であります。一六六}年ポルトガル王女がチャールスニ世の妃となつた時、ポルトガル国王が王女の化粧料として之をイギリス国王に贈つたもので、ポルトガル王は当時のゴア総督が『英人がボムベイに腰を据ゑる其の日に、ポル}ガルは印度を失ふであらう』と切諫したのも聴かず、遂に之をイギリス王に進上したのであります。然るに国王は、色4な事情から其の推持に困り、之を会社に貸下げたのであります。爾来ボムベイは次第に栄え、一六八七年以後はスラートに代つて印度西海岸に於ける英国貿易の中心となり、以て今日に及んで居ります。また「六九〇年には、ベンガルのフ!グリ河畔に、今日のカルカッタとなるべき基礎も置かれ、其の他にも印度の東西両海岸に幾多の貿易拠点が置かれました。一六六〇年より一六九〇年に至る三十年間は、東印度会社の黄金時代で、毎年の平均配当率は二割五分に達して居ります。
マコーレーは其の流麗なる筆を揮つて、当時の事情を斯う書いて居りますi『会社はチャールスニ世の大部分の間、此の印度館で莫大の富を得た。商業史は、かくの如き巨万の冨が堂々と流れ込んだ例を他に見出さず、ロンドン市民は、驚きと貧欲と嫉妬に充ちた憎悪に興奮して居た。富と豪奢とは急激に増加した。東洋産の香料・織物・宝石などに対する嗜好が日増に強烈になつた。モンク将軍がスコットランド兵をロンドンに送つた頃は、茶は支那の非常なる珍品として持唾され、極めて少量を唇で甜めて珍重されたものであるが、入年後には之が規則的に輸入され、間もなく大蔵省が好ましき課税の対象の一としたほど多量に消費され始めた。王政復古以前、イギリスの船舶は、未だ一隻もテームス河畔からガンジス河のデルタを訪れたことは無かつた。然るに王政復古に続く僅々二十三年間に、此の富裕にして人口多き印度からの輸入年額は、八千礪から三万膀に増大した。かくの如く急激に膨脹せる貿易を、一手に独占して居た其の頃の東印度会社の利益は、殆んど真実と思はれないほど莫大であつた。この印度貿易による莫大なる利益が、若し多数の株主の間に分配されて居たならば、何の不平も起らなかつたかも知れない。然るに実際は、株券の値段が上ると同時に、株主の数は漸次減少して行つた。会社の富が最高度に達した時、その経営は極めて少数の富豪の手に握られた』
かやうに東印度会社は最も有利なる東洋貿易を独占し、而も其の無限の利益は極めて少数なる大株主の聾断するところとなつたのでありますから、イギリスの輿論は次第に沸騰し、会社の特権を取消せといふ声が当然高まつて来ました、東印度会社は、此の攻撃に対して、莫大なる黄金を以て戦つて居ります。之もマコーレーの言葉を薙りて申せば『宮廷に於て会社のためになりさうな者、又は害になりさうな総ての者、即ち大臣、女官、僧侶の果に至るまで、カシュミア・ショール、絹織物、薔薇香水、ダイヤモンド、金貨の袋が贈られた。此の思ひ切つた贈賄は、間もなく豊かな利益をのせて帰つて来た』豊かな利益といふのは、国王を初め、政府の高官や会社攻撃者に莫大の賄賂を贈つたお蔭で、輿論の激しき反対に拘らず、ステユァート家の王様たち、即ちチャールスニ匝・ジニームスニ世から特許状を更新して貰ひ、独占期限を延ばすことを得たといふ意味であります。此の賄賂の好きなチャールスニ世とジェームスニ世は兄弟であり.ましたが、其の頃のイギリス人は『兄チャールスは物を理解しようと思へば理解することが出来る、但し弟ジェームスの方は理解することが出来ても理解するを欲しない」と取沙汰して居たのでありますが、そのジェームスニ世が遂に民心を失ひ、一六八八年の所謂名誉革命によつてステェアート家が没落することになつたので、東印度会社は鮫に右力なる味方を失ひ、イギリスの議会と直接対峙せねばならなくなつたのであります。
是に於て東印度会社の反対者はホヰッグ党と提携して会社を倒すに決し、先づ議会をして東印度会社に加へられる数々の非難に就いて調査会を開かせることに致しましたが、調査の結果、会社は新しい特許状を得るために、政府や攻撃者に八十万傍の賄賂を贈つたこと、一六八八年から一六九四年に至る六年間に百七万膀の大金が不当に費消されて居ることが暴露され、一六九五年には多数の璽役が獄に投ぜられて居ります。かかる次第で会社に対する非難は段々と高まり、一六九七年には印度絹の輸入によつて大打撃を蒙つたロンドン絹織業者が、先登に立つて会社攻撃を初め、市民は彼等の宣伝に激して市中諸処に集A口し、東印度会社の建物を襲撃し、その貨物を掠奪せんと騒ぐまでにかりました。会社は日灯激しくなる攻撃に対する策戦として、当時政府がフランスとの戦争のために財政困難に陥って居たのに乗じ、印度貿易独占権確保を条件とし、四分利で七十万膀の国債に応ずることを提議しました。すると会計の反対者はホヰッグ党と相結び、三分利にて二百万膀の国債に応じ、之によつて印度の貿易独占権を奪はうと努め、結局一六九八年に議会は此等の人々に新しき印度会社の設立を許可したのであります。そこで印度貿易のために二つの会社が出来て、激しい競争を始めたので、英国王室及び議会は、かかる状態を放置して居ては、結局競争国の乗ずる所となることを悟り、「七〇二年遂に両会社に合同を命ずるに至りました。尤も合同後にも内部に新旧両派の対ウが続きましたが、一七〇八年にゴルドフィン伯爵の調停によつて、初めて両派の十分なる和解を見、名実共に一個の会社として活動することになつたのであります。東印度会社の印度に於ける真箇の活躍は、実に此の時から始まるのであります。
第三日
イギリス人が純然たる金儲けのために初めて印度に渡つて来たころは、印度ではモーガル帝国の盛んな時でありました。此の帝国はモーガル即ち蒙古人の帝国と呼ばれて居りますけれど、其の建国者バーバルは英雄タメルランの血を引いたトルコ人であります。もとは中央亜細亜の小国の君主にすぎなかつたのでありますが、先づアフガニスタンを征服し次で印度に攻め入り、一五二六年には北印度全部を統一してモーガル帝国の礎を置いたのであります。彼は限りなき興味と教訓とに満ちたる自叙伝を書残して居りますが、実に驚くべき天才で、欧羅巴の歴史家でさへも『古今東西の歴史に於て、バーバル皇帝よりも聰明で、魅力に冨み、また好愛すべき君主は殆んどない』と言つて居ります。其の孫のアクバル大帝は、殆んどイギリスのエリザベス女王と時を同じうし、五十年の長きに亙りて印度に君臨し、之に国家的統「と組織とを与へて居ります。アクバル大帝以前のトルコ人又は蒙古人の印度支配は、要するに一種の軍事的占領にすぎなかつたのでありますが、アクバルは之を強大なる帝国として其の子ジャハーンギールに伝ヘジャハーンギールに次いでアウラングゼブが帝位を継いだのであります。ジャハーンギールの即位は一六〇五年で、アウラングゼブが死んだのは一七〇七年でありますから、私が昨日述べたイギリス東印度会社の前半期の活動は、取りも直さず此の二人の皇帝がモーガル帝国に君臨して居た時代であります。イギリスの東洋進出は、その初めに於ては征服のために非ず、占領のために非ず、専ら貿易のためであつたことは、屡々繰返した通りでありますが、束印度会社が印度と商売を始めたころは、丁度モーガル帝國の盛時に当り、少くとも北印度は政治的に統一され、平和の閲に商売を営むのに好都合の時代でありましたので、東印度会社は印度で戦争をしようなどとは夢にも想つて居なかつたのであります。然る忙アウラングゼブ皇帝の治世後半から帝国の礎とみに揺ぎ、是まで従順であつた諸藩王国が次第にデーリ政府の統制に服さなくなつたのであります。ギンセント・スミスは、アウラングゼブの人となりを説明して斯う書いて居ります一「彼は高遭なる知力の人であり、其の文章が示す如く燦然たる文筆の人であり、巧妙なる外交家であり、恐怖を知らぬ勇士であり、公平仁慈なる裁判官であり、練達なる行政家であり、其の日常生活に於ては最も厳粛敬慶なる修道士であつたが、それにも拘らず其の政治は遂に失敗であつた』そして其の失歌の最大原因は回教徒としての彼の信仰が、余りに熱烈であつたからであります。彼以前のモーガル君主は、宗教に対して極めて寛大でありましたが、アウラングゼブは其の寛容政策を一榔して、回教を弘めるために、従つて異教徒を亡ぼすために、一切の非難、一切の抵抗、一切の政治的不利益を無視して全力を注ぎ、そのためにモーガル帝国の最も勇敢なる護衛であつたラージプ下人を離反させ、南印度に於けるマラーター人の魂に民族的憎悪の炎を燃え立たせたので、帝国の秩序は俄に棄れ初め、民は塗炭の苦を嘗めるやうになつたのであります。此の混沌はアウラングゼブの死後、急速に激成されて行きました。そこで印度会社は今までのやうに平和の間に商売が出来なくなり、貿易を支持するために兵力を用ゐるに決し、一六八六年に最初の印度遠征軍派遣を見ましたが、此の時はアウラングゼブ皇帝時代のこととて、遠征軍は散々な目に遭ひ、一六九〇年、モーガル皇帝に十七万礪の償金を出し、其の上『将来かくの如き恥づべき行為を繰返さぬ』といふ約束の下に再び通商を許されたのであります。
此のイギリスの印度遠征軍は十二門乃至十七門の大砲を具へた軍艦十隻、歩兵六百から成れる小規模のものでありましたが、その目的だけは恐ろしく大規模であつたのであります。即ち印度の海岸では、土民の船艦を捕獲してモーガル帝国に宣戦する、東海岸では海上に於ける}切のモーガル船艦を箪捕し、ベンガル湾の北東隅にあるチッタゴンを占領し、ガンジス河を湖つてベンガル国の首府ダッカに至り、藩王との間に武力を以て強制して条約を結ぶといふのであります。之はイギリスと印度とが如何に遠距離であるか、印度の勢力は如何ほどのものであるかに就いて全く無智であつたから立てられた笑ふべき計画であります。当事のモーガル帝国は、衰へたりとは言へ尚ほ十万の大軍を擁し、ペンガル藩王でさへも直ちに四万の兵を動員し得たのでありますから、六百や千人のイギリス兵では、歯の立ちやうがなかつたのであります。唯だ此の時印度に於けるイギリスの没落を救つたのは、その有力なる海上権で、英国軍艦が西海岸の一切の船舶を捕獲した上、艦隊を紅海及びペルシア湾に出動させて、印度とメッカの間を往復する回教徒の巡礼船を捕獲させたので、モーガル皇帝も漸く和意を生じたのであります。
是より先き、フランスもまた諸国に遅れて印度に進出して居ります。種πの失敗を重ねた後、フランスでも印度会社と呼ぶ大きい団体が、ルヰ十四世の保護の下に一六六四年に形成され、一六七四年に印度東海岸のポンディシェリ一六入八年にはカルカッタ附近のチャンデルナガールに根拠地を築き、其の他東及び西海岸の諸処に商館を置いて活動を始めました。そして印度の政治的混沌に乗じ、互に反目せる諸藩王を争はせて漁夫の利を占めながら、次第に勢力を扶植して行つたので、勢ひイギリスとの衝突を免れぬこととなりました。かかる間に欧羅巴では、スペイン王位相続を導因として英仏両国が相戦ふことになつたので、一七四四年以来、戦争は惹いて印度にも及び、鼓に印度は明白に英仏両国民の植民的覇権争奪の舞台となり、此の世紀の初めより次第に政治的性質を帯びて来たイギリス東印度会社は、今や著しく其の色彩を濃くするに至つたのであります。
印度に於ける英仏両国の角逐は多年に亙り、互に勝敢あつたのでありますが、初めの間は勇敢大胆なるフランスの指揮者デュプレークス及びラ・ブールドネ等の武断政策が、着々効を奏して、イギリスの地位は次第に不利となり、一七五三年にはイギリス東印度会.社より本国政府に干渉を請うて、其の結果一時休戦を見るに至りました。而して一七五六年には、イギリス勢力の衰へに乗じ、予ねて英人の無遠慮なる進出を憎んで居たベンガル藩王スラージャ・ウッダウラがカルカッタを襲撃し、百四十六人のイギリス人を小さい部屋に閉ぢ籠めて、遂に悉く之を窒息させた所謂ブラック・ホールの悲劇があり、イギリスの形勢日に非ならんとしたのであります。
かくの如き時に当り、形勢を一変してイギリスの地位を回復したのは、実にクライヴの機略と勇気とであります。イギリスはスラージャ・ウッダウラの襲撃に対抗するため、ワトソン提督に二千四百の兵を与へ、マドラスからベンガルに艦隊を派遣したのでありましたが、此の遠征隊の中に当年三十二歳の陸軍中佐ロバート・クライヴが加はつて居たのであります。東印度会社の重役達は、艦隊派遣はもともとペンガル藩王の庸懲が目的でなく、会社が営業を始められる状態に復帰すればそれで満足なのでありますから、藩王から和平を申入れると、直ぐさま之に応じて停戦状態に入つたのであります。然るに藩正は故意に交渉を長びかせ、其の関にいろいろな権謀術策を用ゐて宥利に悶題を解決しようとしましたので、クライヴの方でも敗けず劣らず陰謀をめぐらしました。彼は其の放つた間諜によつて、藩王の周囲には、機会あらば自ら取つて代らんとする謀叛を企んで居る者があり、その中で最も有力なのは藩王の総軍司令官ミル・ジャファールであることを知り、一方藩王と和平交渉を続けながら、他方のミル・ジャ7アールを籠絡して、彼を助けてベンガル藩王とする計画を進めて往きました。そして準備が出来ると、藩王に向つて英国の勘忍袋の緒は最早切れたから、諸種の懸案を即刻解決したいと申込んだのであります。藩王はクライヴの言葉の意味を直覚し、彼の挑戦に応ずるため急ぎ軍隊を集結し、歩兵五万、騎兵一千四千、大砲五十門を具へた上、フランスからの援軍を得て、イギリスとの一戦を覚悟しました。此の時クライヴの兵は僅に二千四百でありましたが、彼はミル・ジャファールと打合せ、適当な時機に藩王に叛いて部下と共にイギリス軍に投降させる手筈を整へ、安心して行軍を開始したのであります。
いまや両軍はプラッシーの野に対陣し、戦火を開くばかりになりましたが、ミル・ジャファールは約束に背いて定められた時刻に行動を起さなかつたのであります。そこでイギリスは二千四百の寡兵で六万五千の大敵と雌雄を決せねばならぬこととなつたので、イギリス側の軍事会議は甚だしく絶望的な空気に包まれ、皆な激しくクライヴを非難して、如何なることがあつても此の無謀なる会戦は避けねばならぬと主張したのであります。クライヴは職存として彼等の喧々鴛々たる議論を聞いて居ましたが、やがてすくつと立上がり、『一時間後に何を為すかを言うてやる』と言つたまま、大木の下に往つて横臥して居ました。而して正「時間の後に『戦争だー・明日即ち「七五七年七月二十二日、我等は印度軍に向つて進撃する』と命令したのであります。そして灼けつく熱さの中を行軍して、印度軍を距る一哩の森の中に其の日は野営を張り、翌日黎鋸から激しい会戦を始めたのでありますが、必死の英軍の前にベンガル軍は次第に旗色悪くなり、遂に応戦の手を弛めて退却に移り出した時、初めてミル・ジャフγールが動き出し、鼓に勝敗は忽ち決し、藩王は都を棄てて亡命したのであります。クライヴはミル・ジャファールの臆病な行為などは素知らぬ顔をして彼をベンガル藩王の位に即かせ、立どころに銀貨で八十万硬の賠償金を英国側に支払はせた上、自分自身も三十万礫に相当する金銀宝玉を此の新しきペンガル王からせしめて引上げたのであります。すると前藩王の「族の一人が、ミル・ジャファール征伐の軍を起してデーリから進撃して来たので、クライヴは軍を回して敵軍を走らせミル・ジャファールの危険を救つた報酬として三十万礎の年金を終身彼に与へる約束をさせました。
然るに此の時、イギリスと角逐して居たオランダがカルカッタ占領を企てて、軍艦七隻に一万五千の大兵をのせフーグリ河口に押寄せたのであります。ミル・ジャファールはクライヴが煙くもあるし三十万膀の金も支払ひたくないので、密にオランダ人を煽動して、ベンガルに於けるイギリス人の根拠を覆へさうとしたのでありますが、此の時もクライヴは機先を制してオランダ艦隊を襲撃し、遂に之を降したのであります。比の蒔の戦に、]弾来つてクライヴの帽子を貫きましたが、クライヴは帽子を脱いで弾痕を見ながら冷然として『この帽子はまだ役に立つ」と言ひ、再び之を頭にのせ、剣を抜いて敵艦隊の中に小・冊を乗込ませたことは有名な話でありまず。戦終つてクライヴはミル・ジャファールに会ひましたが、オランダとのことなどは口にも出さず、丁寧に外交辞令を取交はして引上げたのであります。それはミル・ジャファールが最早完全に英国の手中に落ちたのでありますから、弁明を求めることも之を叱責する必要も無くなつたからであります。実にクライヴの外交術策と武力行動とが一挙にして印度の東北一帯をイギリスの勢力範囲とし、会社の中心をマドラスからカルカッタに移させることになつたのであります。而して「七六五年には、当時の一中佐クライヴがペンガル総督兼司令官として印度に来り、在職一年半の間にベンガル、オリヅサピハール三国-実にフランスよりも大きい地域を事実上イギリスの領土としたのであります。然るに会社の印度統治は、土民に対して甚だしく苛酷無理解であつたので、到る処土民の反抗を激成し、諸処に叛乱の勃発を見るに至りましたが、イギリスは其の都度之を鎮庄して領土を拡めて行きました。但し連年の戦争のために莫大なる戦費を必要としたので、たとへ貿易で儲けたと言へ、会社の財政は次第に困難に陥り、其の上会社の印度政策が議会に於て激しく非難の的となつたので、ヰリャム・ピットの内閣に於て、東印度会社を全然本国政府の監督下に置く所謂ビットの印度法が制定され、印度事務の最高管理は会社の手を離れ、最初貿易を目的として始められた仕事が、今や貿易と関係なき人々の管理に帰し、会社は全く政治的性質を帯びるに至りました。これは一七八四年のことであります。かく政府と会社とが相並んで印度に臨んだ時代を『二重統治」の時代と申しますが、イギリスが印度に対する積極的侵略を断行したのは此の時代のことで、一七九八年ウヱルズリが印度総督になつた時から始まり、次でヘスティングスが之を遂行し、最後にダルハウジ総督によつて狂熱的に行はれたのであります。
一八五七年、此の年は井伊掃部頭が大老となつた年でありますが、此の年六月二十三日、ロンドンではプラッシi会戦一百年記念祭が行はれ、人灯が葎りにクライヴの勲功を讃へて居た其の時に、イギリスの圧迫に堪へ兼ねた印度土人軍隊が、起つて叛乱を起しました。此の未曽有の凶報が数日後ロンドンに達した時の朝野の驚きは大変であつたのです。叛乱は殆んどガンジス河の全流域に波及し、英国のインド支配は覆へされるかに見えましたが、東印度会社から年金を受けて居た印度の王侯貴族が之に加はらず、其の他の上層階級もまた立上がらなかつたので、半年の後に徹底的に鎮圧されてしまひました。但し此の動乱は二重統治の不備を遺憾なく暴露したので、翌一八五八年の『印度統治法』により、印度統治の大権は全くイギリス国王の手に移り、一入七三年東印度会社は解散し、次で一八七六年イギリス女王ギク}リアが印度皇帝の位に即き、蝕に印度帝国の建設を終つたのであります。
第四日
英国の印度征服史上に、クライヴと相並んで其の名を謳はれるウォレン・ヘスティングスは、もと東印度会社の一書記で、一七七一年三十九歳でベンガル知事となり、一七八五年には印度総督となって、昨日申上げた二重統治時代に、最も辣腕を揮つた人物でありますが、彼が如何に残酷なる手段によつて印度を虐げたかに就いて、二三の例を紹介したいと存じます.私はイギリスを憎む印度人やドイツ人の書物によってではなく、イギリス自身の歴史家の著書に拠つて申上げるのでありますから、何等の誇張もないといふことを承知して頂きます。その歴史家とは既に引用したマコーレーであります。マコーレーは仮令偉大なる歴史家でないとしても、少くとも偉大なる歴史丈学者であり、其の上一八三四年に印度最高会議の法律顧問となり、四年間印度で勤務して、ヘスティングスの行動を現地で見聞した人であります。
さて此の二重統治時代に於て、イギリス本国は印度総督に如何なる命令を与へて居たかと中しますと、『統治は正義と温惰を旨とせよ。但し金を送れ、もつと送れ、もつともつと送れ』ということであつたのです。従つてヘスティングスも絶えず同様の命令に接したのであります。これは実際に於ては全く矛盾した註文で、マコーレーが言へる如く『汝は同時に印度人の父となり、また腐敗に導く誘惑者となれ、汝は正義であると同時に非道であれ』といふのと同じ事であります。ヘスティングスも印度人の慈父になりたかつたかも知れませぬが、ロンドンから金だ金だと激しく催促して来るので、之にも応じなければなりませぬ。此のロンドンからの催促を満足させるために彼が取つた方法の一つは、ウードの一藩王スジャー・ウッダゥラに向ひ『イギリスの軍隊を貸すから隣接ロヒラ人の国ロヒカンドを占領せよ、其の代償として四十万硬を提供せよ』とそそのかし、遂にスジャー・ウヅダウラをして、何等の理由もないのにロヒカンドに攻入らせたことであります。此の事に就てマコーレーは下の如く書いて居りますー『ロヒラ戦争の目的は、他国人に対して毛頭侮辱を加へた事のない善艮な人灯から、其の善き政治を奪ひ、其の意志に背いて厭ふぺき虐政を押付けるといふことであつた。……ロヒラ人は平和を望んで哀訴嘆願し、巨額の金を積んで只管戦争を避けようとしたが、総ては無効であつた。彼等には徹底的抗戦の外に如何なる方法もなかつた。血隆い戦争がかくして起つた。印慶に於て最も善良で最も立派であつた国民は、貧欲・無知・残虐無類なる暴君の手に委ねられ、スジャー・ウッダウラの貧欲をそそつたあれほど豊かなこの国は、今や惨めな国の中でも最も貧乏な地方と成下つた』
このロヒラ戦争は本国でも鷺々たる非難の的となり、政府はヘスティングスに向つて顧問会議を開くやう命令しました。然るに顧問会議の議員は過半彼の敵であつたのに加へて、当時印度人が非常に尊敬して居た名高きバラモン僧ナンダクマールが「ヘスティングスは宮職を売り、且つ罪人から収賄して之を無罪放免した」といふ告訴状を此の顧問会議に提出したのであります。ヘスティングスは形勢の不利なるを見て、まずナンダクマールが、六年前に他人の筆蹟を偽造したといふ廉で之を告訴し、カルカッタ最高法院の裁判長でヘスティングスの親友なるイムビーが、之に死刑の宣告を下したのであります。マコーレーは此の時の死刑の実状を下の如く伝へて居ります。ー
『翌日未明に、絞首台の周囲に無数の人々が集まつて来た。総てが苦悩と恐幡の表情を浮ぺて居た。彼等は最後の瞬間まで、如何にイギリス人でも此の偉大なる婆羅門僧を殺すのでなからう、殺しはしまいと信じたかつたのである。遂に悲壮な行列が群衆の中に進んで来た。ナンダクマールは輿の中に端坐し、擾されぬ心の平静を示す眼差しであたりを見廻した。それは近親の者への告別である。近親者の泪と、思ひ惑へるやうに見える其の振舞は、流石の欧羅巴人の顔色を蒼ざめさせた。此の告別は囚人の水の如き冷静と対比して、強い印象を与へた。会議の交人たちに宜しくと言残して、彼はしっかりした足取で刑台に上り、絞首台に向つて合図した。揺れたる彼の身体を見た無数の人々は一斉に大きな叫喚を上げた。人々は比の惨ましき有様を見て、泣き叫び乍らフーグリ河指して走り行き、其の河水に浴して臓れを潔めようとした』実に憐れな話であります。
いま一つの例は、ヘスティングスが之また金を絞り取るためにウード国の一女王に加へた暴虐であります。彼は英国兵の一隊を派遣して王宮の門を占領し、女王を捉へて一室に幽閉したが、それでも財宝を提供することを肯んじなかつたので、女王に忠実であり女王が最も親愛して居た二人の老人を捕へ、之を櫨の内に投げ込み、死なんばかザに飢ゑさせた上、弱り切つた両人をルクノーに護送して拷問にかけたのであります。かうして女王の心を痛ましめようといふのであります。数でまたマコーレーの言葉を引用致しますー
『ルクノーで野蛮なる行為が行はれて居る一方、女王は益々厳重に禁銅された。食物の差入はほんの一口か二口にすぎないから、二人の腰元は飢ゑて死んだ。あらゆる脅迫を行ひ尽し、もはや如何なる手段も種切れとなつた後、漸く総督は彼女から百二十万硬を絞り上げた。ルクノーの二老人も初めて釈放された』
而もかくの如き行為は、決してヘスティングスのみのことでなく、彼の後を承いで総督となったダルハウジも同様であったのであります。ダルハウジに就ては同じくイギリスの名高き歴史家シーレーが如何に『横暴を極めた方法』で侵略を行つたか、『到底是認し難き数々の行為を敢てしたか」を物語つて居ります。
印度とイギリスとは波濤万里を隔てて居ります。印度の民衆は爾く多数であります。従つてイギリスの印度征服は不可能とも考へられます。実際若しイギリスが武力だけで印度を征服しようとしたならば、恐らく不可能であつたらうと思はれます。併し乍らイギリスば、決して武力にのみ頼つてインドを征服したのでありません。辛辣なる権謀術策を用ゐて、印鹿を其の単純なる人民から奪ひ取つたものであります。イギリスは、印度教徒と回教徒とを反目させ藩王と藩王とを敵対させ、ジャツト人とラージプト人を戦はしめ、其のジャツト人・ラージプト人とマラーター人とを戦はしめ、ブンデラ人とロヒラ人とを争はしめたのであります。英人はあらゆる苦肉の策を以て彼等を離間することに成功し、彼等が無益の争闘に疲れ果てるに及んで、専ら漁夫の利を占めて来たのであります。イギリスは又条約を藩王と結んでは勝手に之を破棄し、故らに藩王を酒と女に溺れさせ、苛敏蘇求を行はねば財政が立ち行かぬやうに仕向けて、人民と反目させました、さうして「歩一歩英国勢力を印度に確立して行つたのであります。その「々を詳しく説明する余裕はありませぬが、度灯引用したマコーレーの『クライヴ論』及び『ヘスティングス論』ジェームス・ミルの『英領印度史』トレンの『亜細亜に於ける我が帝国』ベルの『パンジャブ併合史』などを御覧になれば、私の言葉が決して誇張でないことを御認めになることと存じます。而していま挙げた書物は、悉く英国人自身の著書であります。
さてモーガル帝国廃頽以後の印度諸藩王の政治は固より善政でありませんでしたが、それでも倫ほ東印度会社の統治より優って居たことは、ジェームス・ミルの『英領印度史』が正直に之を認めて居ります。この英人の虐政に対する抑へ難き愈篠が、一八五七年の印度兵叛乱でありますが、此の叛乱中、並に叛乱鎮定後に於けるイギリス人の残忍酷薄は、世間の人が多く知らない処で、而も彼等の印度に対する態度を最も赤裸々に暴露せるものでありますから、二三の例を之もイギリス人の薯書のうちから紹介して置きます。第一はケー・A・マレソンの『印度叛乱史』第二巻の一節であります。
『戒厳令は布かれた。五月及び六月の立法会議によつて制定された恐怖すべき条例が盛んに適用された。文官武官が等しく血睦き巡回裁判を開き、或は巡回裁判なしに土民の老幼男女を屠つた。駈にして血に渇ける慾は更に強くなつた。轡に叛乱に荷担せるもののみならず、老人・女子・小児なども血祭に上げられた。此の事は印度総督が本国に送れる書類の中の、英国議会の記録に収められて居る。彼等は絞刑には処せられず、村々に於て焼殺され、又は銃殺された。英人は臆面もなく此等の残忍を誇つて、或は】人の生者を余さずと言ひ、或は黒ん坊どもを片端から殴り飛ばすのは実に面白い遊戯だと言ひ、或は実に面白かつたと言ひ又は書いて居る。権威ある学者の承認せる一著書には三箇月の間、八輌の車が、十字街又は市揚で殺された屍骸を運び去るため、朝から晩まで往来したとあり、また斯くして六千の生霊が屠られたとある』
『我軍の将校は既に各種の罪人を捕へ、恰も獣を屠るが如く之を絞刑に処して居た。絞首台は列をなして建てられ老者・壮者は言語に絶する残酷なる方法を以て絞首された。或る時の如きは、児童等が無邪気に叛兵の用ゐし旗を押立て、太鼓を打ちながら遊んで居るのを捕へて、悉く之に死刑の宣告を与へた。裁判官の一人なりし将校は、之を見て長官の許に赴き、流涕して此等の罪なき児童に加へられたる極刑を軽減せられんことを嘆願したが、遂に聴かれなかつた』
次はベルの『印度叛乱』第一巻の中の一節でありますー
『予ぱ面白い旅をした。我等は一門の大砲をのせた汽船に喪込み、だ右両岸に発砲しつつ航行した。叛乱のあつた処に着くと、船から上陸して盛んに小銃を発射した。予の二連銃は忽ち数人の黒ん坊を殺した。予は実に復仇に渇して居た。我等は右に左に小銑を発射した。天に向つて発射せる銃火は、微風に揺られて叛逆者の上に復仇の日が来たことを示した。毎日我等は騒動の起つた村々を破壊し焼打ちするために出て歩いた。予は政府並に英人に抵抗する一切の土民を裁判する委員の主席に推された。日々我等は八人乃至十人を屠つた。生殺の権は我等の掌中に在つた。そして自分は此の権利を行ふに些かの容赦もなかったことを断言する。死刊を宣言された犯人は、頸に縄を巻いて、大木の下に置かれた馬車の上に立たされ、馬車が動けば犯人は畠り下つて息絶えるのである』
印度はかくの如くにして英国のものとなつたのであります.、然らば印度の統治が東印度会社の手を離れ、二重統漕時代を去つて、全く英国政府の手に移つた後に、印度は果して幸福であつたか。断じて否であります。先づイギリスは、数4の法律条例によつて、印度在来の農業制度を根掻から破壊し去りました。そのために印度会社の経済的障壁であつた村落共同体は亡び去り、農村はイギリス資本の支配の諸条件に都合よいやうに改革されましたので、印度葺村は目も当てられぬ悲墜な状態に陥りました。ハーバート・コムプトンは『予は誓つて言ふ、大英帝国に於て、インド農民以上に悲惨なるものはない。彼は「切を絞り取られて唯だ骨のみを残して居る』と言って居ります。彼等の多くは、腹一杯物を食つた経験なくして死ぬのであります。常に精根を使ひ尽して居るので病に罹れば直ぐ驚れます。衣服は殆んど纒はず、子供に至つては全く裸であります。家には明りがなく、日暮れて月なき夜には、彼等は情然pして闇黒の裡に膿つて居るのであります。→九二八年と言へば今から十年前です。此の年にベンガル州の衛生長官ぱ下のやうに報告して居ります!『ベンガル農村の大部分は、単でも一月とは生きて行かれさうもない物を常食と」て居る。彼等の生活は、不当なる食物のために非常に悪化して居るので、悪疫の伝播を防ぐよしもない。昨年はコレラで十二万人、マラリヤで二十五万人、肺結核で三十五万人、腸チフスで十万人死んだ』と。印度の手工業も、また壊滅しました。第十八世紀末九世紀初めにかけて、イギリスは産業革命の時代でありますが、此の革命は印度で搾取した黄金のカで一層早められたのであります。昔から世界最大の棉製品生産国であつた印度に、イギリス製の棉糸棉布が氾濫するやうになつて、極めて多数の印度人は路頭に迷つてしまひました。
アメリカの国務長官であつたブライヤンは、音に聞えた雄弁家として、我国にも普く知られた政治家であります。此の人が曾てロンドンで発行される『印度』という週刊新聞に、「印度に於ける英国の統治』と題する「文を発表したことがあります。ブライヤンは此の論文の冒頭に『正義とは何ぞ、此の疑問は予の印度旅行中、不断に予の耳に響いて居た。予が未だ法律学生たりしころ、予はウォレン・ヘスティングスの審問に於けるシェリダンの演説を読んだ。其の後十六年にしてアメリカがマ三フを取り、盛んに植民政策が論議されるやうになると、予は印度に於ける英国の統治を知らんとして端なくもシェリダンの弾劾演説を想ひ出した。予は是を読めば読むほど英国の不正なるを思つた。然るにアメリカ人の多数は、年来英国の植民政策を賞謎しているので、予は我国にとりて極めて重大なる問題を、真剣に研究する機会を与へられるだらうと思って、大なる期待を以て印度視察の途に上つた。予は高級下級の英国官吏、印度教・回教・波斯教の教養ある人士と会談し、貧者・富者、都会の人、農村の人を視察し、統計・報告・演説筆記などアメリカで手に入れられぬ文書を集めて調査した。そして印度に於ける英国統治は、予の想像したるよりも遥に悪く、遥に苛酷に、遥に不正なるを知つた』と申して居ります。次いで彼は印度視察中に知り得たる数々の不正を指摘したる後、下の言を以て其の文を結んでおりますー『何人も植民政策を弁護するために印度を引証する勿れ。助けなき人民の上に無責任なる権力を揮ふに当りて、智慧と正義とを以てすることの如何に人間として不可能事なるかを、イギリス人はガンジス河・インダス河の流域に於て立証して居る..英人は或る利益を印度に与へたが、之に対して無法なる代価を強奪した。生きたる者に平和を齎すと称へながら、幾千万の生霊を死者の平和に誘つた。争闘に苦しむ民衆に秩序を与へると称へながら、合法的掠奪によつて国土を極度の貧困に陥れた。掠奪といふは過言かも知れない。但し如何に言葉を飾るとも、現在の不当なる政治を浄めることは出来ない』
是が実にイギリスの印度統治であります。
第五日
今日は英国の支那進出について申上げます。支那の数々の物産のうち、夙くから西洋で珍重されたのは、絹布及び茶であります。此の高価なる品物は、印度航路のまだ開かれぬ前から、陸路中央亜細亜を経て欧羅巴に供給されて居たのであります。そして最初に海路によつて此の有利なる貿易を独占したのはポルトガルでありましたが、第十七世紀の初め、チャールス一世の時に至り、英国商人の一団が、支那貿易に参加すべく、国王から特許状を与へられ、艦長ウェツデルが此の目的のために一小艦隊を率ゐて支那に向ひ、一六三五年マカオに到着しました。即ち我国では三代将軍徳川家光の時に当ります。ポルトガルは此の新しき競争者の出現を憤り、一切の迫害を加へて其のマカオに拠ることを妨げたので、ウェツデルは此の地を去つて広東に進まうとしました。然るに艦隊が広東河口の虎門砲台に差しかかると、突然支那兵が砲撃を加へたので、ウェツデルは直ちに之に応戦し、遂に砲台を占領してイギリス国旗を掲げました。その結果、支那はイギリスに通商を許し、交易の場処を広東城外に定めました。爾来、英国と支那との貿易は専ら広東を通じて行はれ、やがてイギリス人は支那貿易に於て他の欧羅巴諸国を凌ぎ、少くとも他国商人の取扱ふ荷物でも、船は主としてイギリス船で運ばれ、ロンドンが支那商品の欧羅巴市場となりました。
さて初めに述べたやうに、イギリス人が広東から積出す主要商品は、主として絹布と茶でありましたが、之に対して莫大の現銀を払はなければならなかつたのであります。支那は当時自給自足の国でありましたから、殆んど欧羅巴貨物を必要とせず、唯だ銀だけがほしかつたのであります。しかしながら、多量の銀を輸出することは、イギリスに取って甚だ苦痛であつたので、之に代るべき商品を求め、一石で二鳥を獲んと苦心しました。そして現銀に代るべき商品を英国商人は阿片に於て発見したのであります。
十八世「紀の中頃まで、阿片は多くペルシアで栽培され、それが支那に輸入されて→部の階級に愛用され、次第に弘まつて行く情勢にあつたのであります。そこでイギリス商人はインドで阿片栽培を奨励し、やがて印度阿片が支那に輸入され初めましたが、其の額は年灯増加して行ぎました。それだけ支那の阿片吸飲者が激増したわけであります、此の事は支那に取つて二重の深刻なる打撃でありました。第一には阿片中毒によつて国民の心身が劣悪になります。第二には従来とは反対に現銀が国外に流出しだします。それは銅銭に対する銀の騰貴を招き、租税収入は減少し、一般に経済的・財政的危機を誘発する惧があつたのであります。それ故に支那は既に「七九六年に阿片の輸入を禁じ、一八一五年には国民に阿片吸飲を禁じて居りますが、此の年イギリス商人の輸入した阿片は三千箱でありました。「入二二年には両広総督院元が厳量に阿片販売を禁じましたが、度4の輸入禁止に拘らず、此の年の輸入額は一万箱に達して居ました。爾来、支那は毎年阿片禁止令を発し、その輸入及び吸飲を厳禁せんとしましたが、輸入も吸飲も年々増える一方で、結局どうすることもできなかつたのは、支那の官吏が賄賂を取つて、見て見ぬふりをするからであります.そこで後には、どうせ防ぎ切れないからといふので、重税を課して輸入を黙許することにしたので、海岸到る処で密輸入が行はれ、之を取締る大官までが、いつの間にやら阿片吸飲者となつてしまつた始末でありました。
支那政府は阿片政策に就いていろいろ頭を悩まし、之に対する政治家の意見も区々でありましたが、遂に阿片貿易に徹底せる弾圧を加へるに決し、必要の場合には武力をも用ゐる覚悟を極め、この目的のために一八三九年、林則徐を欽差大臣に任じて広東に派遣することになりました、林則徐は勇気もあり、精力もある愛国者でありました。彼は外国商人の所有する阿片は、禁制品だから支那官憲に引渡せと要求して、約二万箱の阿片を押収して之を焼いてしまひましたが、偶〃此の時に支那人がイギリス水夫のために殺された事件がありました。林則徐は犯人の引渡を要求したけれど、イギリス側が之に応じなかつたので、遂に最後通牒を発し、若し時間内に犯人を引渡さなければ、広東市外商埠地内の英人区域を攻撃すべしと威嚇したので、商埠地居留の外国人は皆なマカオに研上げました。
然るにイギリスは、欣んで林則徐の挑戦に応じたのであります。戦争は先づ広州附近で、支那軍艦に対するイギリス側からの砲撃を以て始められましたが、イギリスは印度を根拠地とし、支那より遥に優載せる戦争技術を用ゐ、易易と支那軍を破つたのであります。その陸海軍は、舟山列島・香港を略取し、次で寧波・上海・呉海・鎮江等を占領しました。いまや英国艦隊は楊子江に侵入し、大還河による北支と中支との連絡を遮断し、将に南京を衝く勢を示したので、支那は「八四二年八月二十九日、南京でイギリスとの講和条約に調印せねばならなくなつたのであります。此の南京条約は、今日まで支那を拘束する不平等条約の長き歴史の最初のものでありますが、此の条約と翌一八四七年の補足条約とによつて、丁度百年目に昨日我軍が奪回した香港を開き、且つ此等の諸港に於ては、外国に対する是までの一切の制限を撤廃し、関税率と港湾税率とを定め、支那に於ける外人の治外法権の基礎を置いたのであります。
阿片戦争はマルクスの言葉を籍りて言へば『それを誘発した密輸入者どもの貧欲に適はしき残忍を以てイギリス人が行へるもの』であります。この戦争は深刻無限の影響を支那に与へて居ります。まつイギリスと戦つて惨めな敗北をしたために満洲朝廷の威信が地に落ちてしまひ、其の後決して再び回復されなかつたのであります。五つの港が貿易の自由のために開かれて以来、数千の外国船が支那に殺到し来り、支那国内には瞬く間に英米の廉価なる器械製品が氾濫するやうになり、手工を基礎とする支那産業は機械と戦争の前には倒れ去る外仕方がなかつたのであります。いまや驚くべき多量の不生産的なる阿片が消費され、阿片貿易によつて貴金属が流出したのに加へて、国内生産に及ぼせる外国競争の破壊的影響が加はって来たのであります。旧い支那が維持され、保存されるための第一要件は、完全に国を鎖ざして置くことでありましたが、今や其の鎖国が、イギリスの武力によつて苦もなく打破られたのであります。恰も密封された枢の中に、注意深く納められて来たミイラが、一朝新鮮なる外気に触れると、立ち所にボロボロとなるやうに、阿片戦争は支那の財政・産業・道徳並に政治機構の上に重大なる作用を及ぼし、必然的に支那国家の解体を促したのであります。此の時以来急速に土地は腐敗した官吏や豪商の手に落ちて往つた。潅概や堤防が投げやりにされたので、旱魁や洪水の度毎に農民は貧困に陥つた。匪賊の横行蹟屋が年と共に甚だしくなつた。騒動は各地に勃発した.その最も大規模なるものは、いふまでもなく「八五〇年から六四年に亙る長髪賊の乱であります。そして欧米列強、わけてもイギリスは、此の動乱を好機として、「層強大なる根拠を支那に於て築き上げたのであります。
やがてアロー号事件を導火として、第二次英支戦争が行はれました。アロi号というのは香港政庁に登録されて居た支那船で、アイルランド人を船長とし、勝手に英国国旗を掲げて航海して居りましたが、水夫十四名は皆な支那人で、実は英国国旗の蔭に隠れて阿片の密輸入を事として居た数々の船の一であつたのであります。一入五六年、此の船が広東下流の黄捕に碇泊して居た時に、船長の留守中に支那兵が乗込み、禁制品の阿片を発見したので、英国国旗を引下ろし、乗組員十二名を罪人として支那軍艦に引致しました。此の些々たることを口実とし、また先年フランス宣教師が広西の田舎で殺されたので、支那に難題を吹かけて居たフランスと聯合し、一八五七年暮、英仏聯合軍が広東を攻めて之を陥れ、総督葉明環を囚へて之をカルカヅタに送りましたが、一年の後に之を幽死させて居ります。そこで英国司令官は一書を北京に送り、支那全権は.呑港に来て和を講ぜよと申入れたが、支那は無論之に応じなかつたので、然らば直接北京政府と談判すると称へて、戦を北万に移し、英仏聯合軍は白河河口の太沽砲台を陥れ、河を潮つて天津に入つたので、支那は止むなく両国と和議を結んだのが所謂天津条約であります。この条約によってイギリス其の他の列強は、北京に公使を駐在させること、既に開かれた五港以外に更に五港を開くこと、イギリス船舶のために楊子江を開放することなどを取極めました。
此の条約は北京で批准交換せらるべきものであつたが、支那側は上海で之を行はうとしたので、イギリスは例によつて武力を以て強行しようとし、一八五九年英国艦隊は天津に進航するに決しましたが、此の度は太沽砲台から砲撃を受けて【旦退却した後、更に英仏相結んで再び支那に宣戦し、海陸合して二万五千より成る英仏聯合軍が、またもや支那を破つて、此の度は北京に進撃し、清国皇帝は熱河に蒙塵するに至りました..此の戦争に於てイギリス陸軍の主力は、実に一万の印度兵でありました[一印度人は英人のために其の国を奪はれた上、同じ亜細亜の国πを征服する手先に使はれて今日に及んで居ります。かくて支那は、一八六〇年十月、英仏両国と北京条約を結び、天津条約を確認し、天津を開港場とし、多額の償金を払ひました。香港の対岸九竜を奪ひ取つたのも此の条約によつてであります。一八五九年、此の戦争が荷ほ酎であつた時、イギリスの新聞、デーリテレグラフは実に次のやうな社説を掲げて居りますー
『大英帝国は支那の全海岸を襲撃し、首府を占領し、清帝を其の宮廷より放逐し、将来起り得る攻撃に対して実質的保障を得ねばならぬ。わが国家的象徴に侮辱を加へんとする支那官吏を鞭にて打て。総ての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦の帆桁にかけよ、人殺しの如き人相して、奇怪な服装をなせる是等多数の悪党の姿は、笑ふに堪へざるものである。支那に向っては、イギリスが彼等より優秀であり、彼等の支配者たるべきものたることを知らしめねばならぬ』誠に驚くべき征服欲であり、また驚くべき下品な言葉使でもあります。
次いでイギリスは、更に陸路によつて支那への進出を試みました。既にビルマを征服せるイギリスは、一八七六年ビルマと支那とを遮る瞼峻なる山脈を突破して、雲南省との通商路を開かんとし、ブラウン大佐を隊長として、ビルマのパモから雲南省毘明に至るべき遠征隊を派遣することにしました。同時に英国領事館附書記生マーガリが、上海から漢口に出で、湖南・雲南を経てバモに出で、此処で濫備を整へ待つて居たブラウン大佐に会し、その通訳兼案内者になつて雲南に向つて引返しましたが、途上ブラゥン大佐に別れて出発し、雲南の一駅で何者かのために殺され、またブラウン大佐も支那兵のために囲まれ、目的を遂げずにビルマに引返しました。此の路が、今度の支那事変に至つて開通した所謂ビルマ・ルートであります。イギリスは、此のマーガリ事件を口実として支那を威嚇し、此の年所謂芝 条約を結びましたが、イギリスは此の条約によつて、支那又は印度から自由に西蔵に入国し得るやうになり、爾来、着々西蔵に勢力を扶植し、そのために幾度か支那と衝突しましたが、その都度支那は譲歩するだけでありました。そしてイギリスは西蔵を勢力範囲とすることによつて、一面ロシアの印度侵略に備へ、他面之を足揚として雲南。四川への進出を執拗に続けたのであります。
若し新興日本が支那保全を以て其の不動の国是とし、且っ此の国是を実行するカを具へて居なかつたならば、既に阿弗利加大陸の分割を終へ、満腹の帝国主義的野心を抱いて東亜に殺到し来れる欧米列強は、必ず支那分割を遂行しイギリスは当然獅子の分前を得たことと存じます。現に支那・印度・西蔵に活躍せる名高きイギリス軍人ヤングハズバンドは、支那の如く土地は広大、物産は豊富、而も其の全地域が人間の住むに適する温帯圏内に横はる国土を、一個の民族が独占して居るのは、神の御心に背くー〉題言緯O&.の類旨だと公言しているのであります。日本の強大なる武力は、幸にして支那を列強の狙の上にのせなかったのでありますが、それでもイギリスの政治的・経済的進出を拒むに由なく、支那の最も大切なる動脈揚子江に於て、わけてもイギリスの勢力は餅然他を凌いで強火となつたのであります。従つて日本が長江に経済的進出を始めるに及んで、其の最も手強き妨密者はイギリスであつたのです。其の数々を列挙するこ止は時間が許しませんが、唯一つイギリスの悪辣なる妨害とは如何なるものであつたかを示す実例を挙げます。それは日英同盟が結ばれた翌年即ち一九〇二年に、日本郵船会社で、曾て三十年間楊子江に航路を張つて居た英人マクベーンの事業を数百万円で買収し、其の船に社旗を掲げて楊子江航路を開始すると、稀代の珍事が起つたのであります。即ち上海・漢口を初め楊子江岸諸港の英国人居留地会が、郵船会社の船には一切今までマクベーン船舶の繋留せる水面に立寄るを許さずといふ決議をしたことであります。これは地所は売つたが空中権は売らないから・家を建ててはならぬといふに等しい無理難題であります。日本は極力抗議をしたけれど、英人は頑として聴き入れず、郵船会社は百計尽きてフランス人に交渉し、不便ではあつたがフランス居留地の水面に繋船し、遠く倉庫から迂回して荷物を揚卸しすることになつたのであります。之が後の日清汽船会社の前身であります。日本はイギリス人の同様の意地悪き妨害と幾度か戦ひながら、とにもかくにも長江流城に今日までの地位を築き上げたのであります。日本の長江発展史は、取りも直さずイギリスとの経済闘争史であります。
第六日
中央亜細亜のパミール高原は、古より世界の屋根と呼ばれて居ります。此の高原から斜めに西南に走る山脈はスライマン山脈と呼ばれ、印度とアフガニスタンの国境を走つて印度洋に尽きて居ります。また此の高原から北に走るものは天山山脈と呼ばれ、ズンガリア盆地に於て一旦杜絶した後、再びアルタイ山脈となつて東北に延び、更にヤブノロイ山脈・スタノボイ山脈となつて一層東北に向ひ、遂に亜細亜大陸の東北端イースト・ケープとなつてべーリング海峡に突出して居ります。即ち南はインダス河口から北はベーリング海峡に至るまで、亜細亜大陸は西南より東北に走る碗艇万里の山脈によって、まさしく両断されて居るのであります。この山脈は世界の屋根の長い長い棟であります。而してこの屋根によつて旧世界は東洋と西洋との二つに分たれて居ります。即ちこの屋根の棟の東南斜面が東洋であり西南斜面が取りも直さず西洋であります。ペルシア・小亜細亜・アラビアの諸国は、亜細亜のうちに含まれては居りますが、之を地理学の上から見ても、また世界史の上から見ても、明かに西洋に属するものであり、真実の意味の東洋は疑ひもなくパミール高原以東の地であります。
此の東洋の世界はヒマラヤ山脈に起り、昆嵜山脈となり、東へ東へと進んで支那海に至つて尽きる東西万里の山脈によつて、更に南北に両分されて居ります。南方即ちヒマラヤ山脈の南斜面は印度であり、ヒマラヤの北、天山アルタイ両山脈の東が取りも直さず支那であります。而してインドと総称されるヒマラヤ山脈の南斜面は、更に東西両部に分たれ、西なるはヒンドスタン・インド人の国、即ち狭い意味の印度であり、東部はビルマ・タイ・安南等を含む謂はゆる印度支那で、其の名の如く地理的にも、東洋の偉大なる二つの部分、印度及び支那の中間に位する国土であります。
印度と支那とは、東洋の二つの偉大なる中心であります。両者の面積は殆んど相同じく、人口はまた各灯数億を激へ、ヒ『、ラヤ山脈によつて南北相隔てられ、一方には蒙古人種、他方にはアリアン人種が住み、一方は温帯、他方は熱帯、相距ることも遠く、相異なること大でありますが、東洋は実に此の二っのものの結合によつて一つの全体をなして居るのであります。而して我が日本は此等の東洋の二つの中心から、実に幾多の貴きものを学び、善きものを習ひ、之を自身の精神の裡に統一し、之を生活の上に実現しつつ今日に及んだのであります。西洋人が渡来するまで、日本人に取つて世界とは実に支那と印度、即ち唐と天竺とを中心とする東洋を意味し、此の両国に費が日本を加へて三国31一称へて来たのであります。三国→の花嫁とは世界第]の花嫁のこと、三国】の富士山とは支那にも印度にもない世界一の立派な山のことだつたのであります。三国妖婦伝といふ物語では、九尾の狐が、支那・印度・日本三国の宮廷を哺しまはつて居ります。それ故に支那と印度とは、我々にとりては、少くとも我々の祖先にとりては、決して他国ではなかつたのであります。日本は此等の国から数々のものを学んだので、暫に他国ではないのみならず、実に大切な国、有難い国であつたのであります。然るに今や釈尊が生れ、孔孟が生れた其の大切な国が、イギリスの属国となり、その半植民地と成り果てて居るのであります。
我等が印度から学んだ最も貴いものは宗教であります.、即ち印度思想・印度文明の精華と申すべき仏教の信仰であります。我灯の祖先が如何に誠実に此の教を学び、比の教の生れた印度に憧曝して居たかを示すため、幾多の例を挙げることが出来ますが、最も私の心を打つた「っだけを申上けます。それは鎌倉初期の高徳、京都栂尾の明恵上人のことであります。此の上人は印度に渡つて仏蹟を巡礼したいといふ抑へ難い願ひから、其の巡礼の筋道を事細かに調べ上げ、支那の都の長安から印度の王舎城までは八千三百三十里、日に八里つつ歩けば千日、日に五里つつ歩けば、正月元旦に長安を出発して五年目の六月十日の午刻に王舎城に辿り着く、天竺は仏の生国なり、恋慕の思抑へ難きにより、遊意をなして之を計る、あはれあはれ参らばやと書いて居ります、不幸病のために印度巡礼の願は遂げられなかつたが、印度から渡つて来た竹を見るに、日本の竹と異なる所がない。さすれば釈尊当時の竹林園の竹もまたかやうな竹であらうと、一むらめ竹を学問所の前に植ゑつけ、之を竹林竹と名けて、あけくれ眺めて居たのであります。まことに激しい思慕のこころと申さねばなりませぬ。若し此の明恵上人が、今日蘇つて印度の現状を見、印度がイギリスの鉄鎖に縛られ、其の民は牛馬の如く虐げられて居るのを見たならば、血涙を流して悲しみ、火の如く激しく憤ることであらうと存じます。
我々は印度の仏教から、信仰だけを学んだのではありません。仏教は同時に五明即ち五つの学問を我々に教へて居ります。第一は因明で、論理の講究、第二は内明で、教典の研究、第三は声明で、言語音律の研究、第四は医方明で医術の研究、第五は工巧明で、工芸美術の研究であります。而も教典の研究のうちには、仏典以外の儒教の経典をも含み、寺は寺小屋と呼ばれて国民教育の機関となり、その教科書には儒教の経典が用ゐられて居たのでありますから仏教は日本に取りて 個の宗教であつたのみならず、同時に文化の綜合体であつたのであります。即ち印度文化全体が釈尊又は仏教を通じて我国に伝へられ、その仏教の真理は、いろいろなる理論によつてに非ず、生活体験によつて日本人の魂に浸み込んだのであります。従つて仏教徒たると否とを問はず、我々日本人は甚だ多くを釈尊の印度に負うて居るのであります。それ故、真実の日本人である限り、多かれ少かれ明恵上人が抱くであらう所の悲しみと噴りとを感ぜねばならぬ筈であります。それでありますから、我々日本人が英国の印度統治に対して加へる弾劾は、一昨日紹介したアメリカのブライヤンが加へる如き、単なる人道主義に拠る道徳的非難たるに止まらず、同時に我心と我身とに加へられたる辱しめを感じての義憤であります。現代印度革命思想の生みの親アラビンダ。ゴーシユは『圧制者あり、我母の胸に坐す。我母を此の圧制者より救ふまで、我は断じて息まず」と誓つて居りますが、我存は此の悲壮なる覚悟を、我々自身の覚悟の如く身に泌みて感ずるものであります。私は此の度の対米英戦争に於ける日本の勝利が、必ず印度独立の機縁となり、導火線となつて、古へ釈尊より受けたる教に対する最も善き贈物として、自由を印度に与へ得るに至らんことを切望するものであります。
日本と印度との間のかくの如き関係は、支那との場合に於ても同然であります。我々は支那交明の精華と申すべき孔孟の教を支那から学んだのであります。我々は、総ての生活の基礎を倫理に置かねばならぬこと、即ち人格の上に置かねばならぬという高貴なる糟神を、極めて明晰なる理論を以て儒教から単んだのであります。のみならず、江戸時代三百午の間、学聞と申せぱ支那の学問でありましたので、政治・道徳・文学、あらゆる方面に於て善かれ悪かれ支那文化は国民生活の隅々に浸透し、印度が然る如く支那もまた我身我心の一部となったのであります。其の上支那は印度と異なり、一衣帯水の間柄でありますから、多くの支那人が日本に来て、彼等の血が日本人の血に混つて居ります。中国の大大名でみつた大内氏も、薩摩の島津家も、遠く其の祖先をただせぱ、朝鮮を経て日本に渡つて来た支那人だと言はれ、一徹短気で名高い赤穂義士の武林唯七は孟子の子孫だとも申されて居ります。純然たる日本文学と考へられて居る紫式部の源氏物語でさへ、其の思想も、その文学としての結構も、明かに漢学漢文から脱化したものであります。大宝令は御承知の如く支那の法律制度を模範としたものであります。我等の洗祖は日本の歴史を学ぶと同じ程度の親しみを以て支那の歴史を学び、日本の英雄豪傑を崇拝ずると同じ程度の熱心を以て支那の英雄豪傑を崇拝したのであります。諸葛孔明の出師表は、どれほど日本人に忠義の心を鼓吹したか知れず、岳飛の誠忠がどれほど士気を鼓舞したか測り知れぬほどであります。日本人中の最も偉大なる日本人西郷隆盛が、如何に伯夷叔斉の高潔なる心事に傾倒して居たかは、彼自身の文章によつて知ることが出来ます。わけても支那丈学が甚だしく日本人に喜ばれ、漢詩を作ることは、教養ある人士に欠くべからざる条件の一つとさへなつたので、支那の詩歌文学に現れて来る山や川は自分の故郷の地名の如く日本人の耳に響いたのであります。黄河も楊子江も、赤壁も寒山寺も、乃至西湖も洞庭湖も皆な我灯の耳に久しく聞き馴れて居りますので、例へば『楊子江頭楊柳の春、揚花は愁殺す江を渡るの人』といふ詩を吟ずれば我々は支那の詩人が、長江に寄せた綿々の哀愁を、自ら楊子江畔に立つて感ずる如く感じます。また『洞庭西に望めば楚江分る、水尽きて南天雲を見ず』と歌へば、洞庭湖は決して他国の湖とは思へないのであります。かやうな次第で日本と支那との間には、心の境がなくなつて居たのであります。日本人と支那人とは『我4』といふ一人称を用ふべき兄弟であります。此の支那が、国民の身と心を触ばみ尽す阿片吸飲のあさましい風習を止めるために、阿片輸入を禁止するのは当然至極のことでありましたが、それが承知罷りならぬといつて武力を用ゐたのが実にイギリスであります。イギリスは、一切の道徳を無視し、毒薬を売込んで金儲をしようといふ一群の商人の貧欲なる希望を満足させるために、その軍隊を用ゐたのでありますから、英国軍隊を貫く精神は、ホーキンス、ドレーク等の昔ながらの海賊精神であります。今も昔も変りなき此の海賊精神を以てイギリスは支那に臨み、必要あれば武力を以て、然らざる時は買収と外交的術策と威嚇とを以て、遂に支那を其の半植民地とし、支那民族を最も都合よき搾取の対象としたのであります。イギリスの対支政策は形こそ変れ、大砲の筒先を向けて、恐るべき阿片を突きつけ、飲まねば打つぞと言つた其の精神の種々の現れであります。日本が支那の領土保全を不動の国是として来たのは、其の奥深き根抵を、日本人の真心に有して居ります。支那の文明は黄河と楊子江の流域に起り、その丈明は我が日本の生命と生活とのうちに、今街ほ濃刺として生きて居るのであります。それ故に何はともあれ、黄河、楊子江の流域が他国の手に奪はれるに忍びない、飽くまでも之を漢民族の手に保存させて置きたいというのが、自つと湧き上がる日本民族の赤誠であります。支那は、此の赤誠より送れる日本の政府のために、イギリスの、又はロシアの奴隷となり果てずに済んだとは申せ、年久しく欧米の資本主義並に帝国主義角逐の舞台となつて来たので、年一年と自国の貴重なる丈化を犠牲にする危険に曝されて参つたのであります。曾ては東亜の国々をあれほど豊かにした支那文化は、巧みに支那の統一を破る術を心得て居る欧羅巴帝国主義的諸国、就中イギリスの侵入と共に、内的にも外的にも弱められて、つひに偉大なる過去の、単なる影と成り下らんとして居ります。のみならず、イギリスの巧妙なる搾取と相並んで、今やボルシェギズムの暗い力が新たに舞台に現れ、衰へたる支那を其の勢力の下に置き初めたので、支那の文化は破壊崩潰に対して、益存無抵抗に曝されるに至つたのであります。日本は自国の文化と、支那に於て脅されつつある東洋文化を救ふために、あらゆる努力を続けて戦ひ来れるに拘らず、支郡は起つて我等と共に東洋を護り、亜細亜を滅ぼす勢力と戦はんとはせず、却つて刃を我等に向げ来つたのであります。而して、東洋の敵たる英米と罫を握り、今荷ほ東洋を救ひつつある日本と戦ひ続けんとするのであります。もとより南京政府は既に樹立せられ、汗精衛氏以下の諸君は、興亜の戦に於て我等と異体同心になつて居りますが、支那国毘の多数は其の心の底に於て爾ほ蒋政権を指導者と仰ぎ、日本の真意を覚らんともせず、却つて日本に反抗しつつあることは、悲痛無限に存じます。さりながら明治維新を顧みましても、各藩に勤皇佐幕の対立抗争あり、勤皇諸藩の間に反目嫉視あり、最後に薩長相結んで幕府を倒すに至るまで、如何に多くの高貴なる鮮血が流されたかを思へば、是れ亦止むなき次第であります。
日本の掲げる東亜新秩序とは、決して単なるスローガンではありませぬ。それは東亜の総ての民族に取りて、此の上なく真剣なる生活の問題と、切実なる課題とを表現せるものであります。此の問題又は課題は、実に東洋最高の文化財に関するものであります。それ故に我等の大東亜戦は、単に資源獲得のための戦でなく、経済的利益のための戦でなく、実に東洋の最高なる精神的価値及び文化的価値のための戦いであります。此の東洋交化財は、既に申上げた通り、わが日本民族の魂に、またわが日本国家の中に統一されて、其の最高の価値と意義とを発揮して居るのであります。我々日本人の魂は、直ちに是れ三国魂であります。日本精神とは、やまとこころによつて支那糟神と印度精神とを綜合せる東洋魂であります。従つて東亜新秩序の真箇の基礎たるべき魂は、既に慣然として存在し且つ活躍しつつあるのであります。足かけ五年、我々は此の魂を基礎とせる.秩序を、先づ支那に於て実現するために、此の実現を妨げるものと善戦健闘して来ました。然るに今や世界史の進転は、東洋の敵たる英米と日本との明らさまなる戦争となり、従つて此の新秩序の範囲を、印度にまで拡大し得る形勢となつたことは、我々の欣喜に堪へざる所であります。大東亜即ち日本・支那・印度の三国は、既に日本の心に於て一体となつて居ります。我々の心裡に潜むこの三国魂を、具体化し客観化して一個の秩序たらしめるための戦が、即ち大東亜戦であります。支那民族はやがて其の非を覚るであらう。印度民族はやがて解放されるであらう。正しき支那と蘇れる印度とが、日本と相結んで東洋の新秩序を実現するまで、如何に大なる困難があらうとも、我等ば戦ひぬかねばなりませぬ。いと貴きものは、いと高き価を払はずば決して得られないのであります。想へば一九四一といふ数は、日本に取りて因縁不可思議の数でありまず。元寇の難は皇紀一九四一年であり、英米の挑戦は西紀一九四一年であります。私は日本の覚悟と努力とによつて、英米の運命また蒙古のそれの如くなるべきことを信じて、此の不束なる講演を終ることと致します。