2016/06/18

ブルースの歴史20 シカゴブルース9 ジョン・リー・フッカー John Lee Hooker

800px-JohnLeeHooker1997ジョン・リー・フッカー (John Lee Hooker, 1917年8月22日 - 2001年6月21日)は、米国ブルースシンガーギタリスト。50年以上に渡るキャリアの中で、独特のリズム感覚を持ったブギ・スタイルを確立し、「キング・オブ・ブギ」の名でも親しまれた。1984年には来日公演も行っている。代表曲は"Boom Boom"、"Boogie Chillen"など。
2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第35位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第81位[1]
来歴
ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。生まれた年については、1915年1920年など諸説あるものの、1917年説が最も一般的である。1943年デトロイトに移住。1948年にレコード・ディーラのバーニー・ベスマンの誘いを受け、初レコーディングを経験する。翌年1月、モダンより発表となった

"Boogie Chillen"がR&Bチャートを昇りつめる大ヒットとなった。このヒットにより、他のレーベルからも誘いを受けるものの、モダンとの契約で縛られていたジョン・リーは、様々な変名を使い、複数のレーベルに作品をレコーディングしていった。
1955年、モダンとの契約が終了しヴィージェイ・レーベルと契約する。同レーベルには1965年まで在籍し、計8枚のアルバムを発表した。それまでの弾き語りスタイルから、R&B色の濃いバンドスタイルへと発展し、

"Dimples"や

"Boom Boom"といった代表曲を生み出す。1962年には、初のヨーロッパ・ツアーを行う。現地ではブルース・ブームが起こっていた頃で、彼は熱烈な歓迎を受けたという。
1965年ABCレコードへ移籍する。同レーベル並びに傘下のブルースウェイ、インパルス!レコードなどからも作品をリリースしていった。
1970年代に入ると、デトロイトを離れ、カリフォルニア州に移住する。この頃から、ロック・ミュージシャンとの共演を活発化させている。キャンド・ヒートと共演した

『Hooker 'N Heat』 (1970年) を始め、

『Endless Boogie』 (1971年) では スティーヴ・ミラージェシー・エド・デイヴィスらと共演、翌1972年にはヴァン・モリソンとの共演盤

『Never Get Out Of These Blues Alive』を発表している。
1970年代半ば頃までABCに在籍するが、その後は暫く新作からは遠ざかっている。1980年の映画『ブルース・ブラザーズ』に出演し、シカゴのマックスウェル・ストリートのストリート・ミュージシャンを演じた。1984年7月には、ブラック・ミュージック・リヴュー招聘で、ロバート・クレイとともに来日を果たし、全国6都市で公演を行う。晩年ツアーを嫌ったジョン・リーにとって、結局これが唯一の来日公演となった。
新作から遠ざかっていたジョン・リーだったが、1989年カルロス・サンタナボニー・レイットロス・ロボスら豪華ゲストを迎えたアルバム

『The Healer』で華々しくカムバックを果たす。このアルバムに収録された

「I'm In The Mood」は、グラミー賞最優秀トラディショナル・ブルース・レコーディング賞を獲得し[2]、再び存在感をみせつけることになった。
1991年ロックの殿堂入りを果たす[3]。同年リリースされた『Mr. Lucky』にもライ・クーダージョニー・ウィンターキース・リチャーズらが参加。旧知のヴァン・モリソンとの共演も実現している。モリソンは『Chill Out』 (1995年)、『Don't Look Back』 (1997年) にも参加している他、モリソンのアルバム『Too Long In Exile』(1993年) へのジョン・リーのゲスト参加もあった。
2001年6月21日、ジョン・リーはカリフォルニア州サンフランシスコ近郊ロス・アルトスの自宅で、就寝中に老衰のため死去した。
カムバック後は、幅広いアーティスト達との共演を重ねた。デニス・ホッパー監督の映画『ホット・スポット』のサウンドトラックでのマイルス・デイヴィスとの共演、ピート・タウンゼントの『Iron Man』 (1989年)、ビッグ・ヘッド・トッド& ザ・モンスターズの『Beautiful World』 (1997年)などへの参加がある。トミー・カストロの2001年のアルバム『Guilty Of Love』への参加は、ジョン・リーの最も晩年のゲスト参加のひとつである。
自己名義の作品としては、前述の『Don't Look Back』がラストとなったが、その翌年1998年リリースのベスト盤『The Best Of Friends』にも新録が3曲収録されている。また、没後の2003年発表の『Face To Face』は、未発表音源にゲスト・ミュージシャンのオーバーダブを施した作品であり、事実上のラスト・アルバムとも言える内容である。

2016/06/17

ブルースの歴史19 シカゴブルース8 – エルモア・ジェイムス Elmore James

エルモア・ジェイムス(Elmore James、本名Elmore Brooks、1918年1月27日-1963年5月24日)はアメリカブルースギタリストエレキギターによるボトルネック奏法を主とした野性的な音が特徴で、後のロックギタリストに大きな影響を与えた。
2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第30位。
略歴
ミシシッピ州リッチランド生まれ。10代の頃からクリーンヘッド、ジョー・ウィリー・ジェームスなどの名前で音楽活動を始め、サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIハウリン・ウルフロバート・ジョンソンらと共演した。
1951年

「ダスト・マイ・ブルーム/Dust My Broom」がヒットした。この曲の冒頭で聴かれる彼の個性であるワイルドな3連スライド・ギターリフは、他のブルース曲に借用されることも多い。またドゥーワップミュージシャンのジェシー・ストーンズの曲「Down in the Alley」でも多少変化させたこのリフが借用されている。 なおエルビス・プレスリーは、この「Down in the Alley」をレコーディングしている。
1963年シカゴで心臓発作により死去。

2016/06/16

ブルースの歴史18 シカゴブルース7 – ヒューバート・サムリン Hubert Sumlin

HubertSumlin2003.jpg

ヒューバート・サムリン(Hubert Sumlin、1931年11月16日 - 2011年12月4日)は、アメリカ合衆国ブルースギタリストシンガー。ハウリン・ウルフのバンドで活躍したことで知られる。決してうまいギタリストとは言えないが、勢いのある個性的なプレイは、ウルフのサウンドに欠かせない存在となった。

略歴

米国ミシシッピ州グリーンウッド出身でアーカンソー州ウェストメンフィス郊外の町ヒューズで育った彼は、1954年にシカゴに移住。ハウリン・ウルフの初代ギタリストウィリー・ジョンソンの後任として彼のバンドに加入する。以後、ウルフが1976年に他界するまで、20年以上の長きに渡り彼の相棒を務めた。ウルフの主要なレコーディングで彼の自由奔放なプレイを聴くことができる。特に


"Hidden Charms"、

"Love Me Darling"あたりのプレイは彼らしい勢いにあふれている。


Howlin' Wolf- Killing Floor

Crossroads 2010 .--5 tema Killing Floor-Robert Cray- Jimmie Vaughan & Hubert Sumlin


Crossroads 2010 .--5 tema Killing Floor-Robert Cray- Jimmie Vaughan & Hubert Sumlin

ウルフ亡き後はソロに転じ、ヴォーカルも取るようになった。ソロ作はブラックトップ、ブラインド・ピッグ、トーンクールなどからリリースされている。

来日公演は、1998年(モントルー・ジャズ・フェスティバル・イン・ジャパンでシカゴ・ブルース・オールスターズの一員として)、2001年ジャパン・ブルース・カーニバル)と2度行っている。

2003年ローリング・ストーン誌の同年8月号カバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第65位[1]、2011年の改訂版では第43位に選ばれている。

2011年12月4日、アメリカ合衆国ニュージャージー州ウェインの病院にて、心臓発作のために亡くなった[2]。80歳没。

2016/06/15

ブルースの歴史17 シカゴブルース6 – ジミー・ロジャース Jimmy Rogers

Jimmy Rogers (June 3, 1924 – December 19, 1997)[2] was a Chicago blues singer, guitarist and harmonica player,[1] best known for his work as a member of Muddy Waters's band in the early 1950s.[3] He also had solo hits on the R&B chart with "That's All Right" in 1950 and "Walking by Myself" in 1954.

He withdrew from the music industry at the end of the 1950s but returned to recording and touring in the 1970s.

Career[edit]

Rogers was born James A. Lane in Ruleville, Mississippi, on June 3, 1924 and was raised in Atlanta and Memphis.[4] He adopted his stepfather's surname.[3] He learned to play the harmonica with his childhood friend Snooky Pryor and as a teenager took up the guitar. He played professionally in East St. Louis, Illinois, with Robert Lockwood, Jr., among others. Rogers moved to Chicago in the mid-1940s.[5] By 1946, Rogers had recorded as a harmonica player and singer for the Harlem record label, run by J. Mayo Williams. Rogers's name did not appear on the record, which was mislabeled as the work of Memphis Slim and His Houserockers.

In 1947, Rogers, Muddy Waters and Little Walter began playing together, constituting Waters's first band in Chicago (sometimes referred to as the Headcutters or the Headhunters, because of their practice of stealing jobs from other local bands). The band members recorded and released music credited to each of them as solo artists. The band defined the sound of the nascent Chicago blues style (more specifically South Side Chicago blues). Rogers recorded several sides of his own with small labels in Chicago, but none were released at the time. He began to enjoy success as a solo artist with Chess Records in 1950, with the hit song "That's All Right", but he stayed in Waters's band until 1954.[3]In the mid-1950s he had several successful releases on the Chess label, most featuring either Little Walter or Big Walter Horton on harmonica, notably "Walking by Myself".[6] In the late 1950s, as interest in the blues waned, he gradually withdrew from the music industry.[3]

In the early 1960s Rogers briefly worked as a member of Howling Wolf's band, before quitting the music business altogether for almost a decade. He worked as a taxicab driver and owned a clothing store, which burned down in the 1968 Chicago riots following the assassination ofMartin Luther King, Jr. He gradually began performing in public again, and in 1971, when fashions made him somewhat popular in Europe, he began occasionally touring and recording, including a 1977 session with Waters. By 1982, Rogers was again a full-time solo artist.

In 1995 Rogers was inducted into the Blues Hall of Fame.[7]

He continued touring and recording albums until his death from colon cancer in Chicago in 1997.[2] He was survived by his son, Jimmy D. Lane, a guitarist and a record producer and recording engineer for Blue Heaven Studios and APO Records.

Selected discography[edit]

    Jimmy Rogers (1984), compilation album of some pre-1960 songs

    Ludella (1990)[8]

    Jimmy Rogers with Ronnie Earl and the Broadcasters (1991), live recording

    Feelin' Good, with Rod Piazza (1994, Blind Pig)

    Sloppy Drunk (1998), compact disc reissue of the album released in December 1973

    Blue Bird (1994, Analogue Productions Originals)

    The Complete Chess Recordings (1997)[9]

    Blues Blues Blues, as the Jimmy Rogers All-Stars, with Mick Jagger, Keith Richards, Eric Clapton, Taj Mahal, Lowell Fulson, Jimmy Page, Robert Plant, Jeff Healey and others (1999)

          Jimmy Rogers Blues Band, Chicago Blues Festival, Grant Park Chicago, Illinois ,1991

          最近の撮影機材

          最近は、メインのブツ撮りも会社のブログ用の季節の写真も全く撮らないようになったので、使うレンズや機材が変わってしまった。
          以前は、もっぱら、マイクロフォーサーズのGH4をメインとして使っていたのだが、今は、女性が被写体のことが多いのでフルサイズのα7sを持ち出すことが専らだ。
          フルサイズは中央と周辺部の描写の差がありすぎて、パンフォーカスにしたいブツ撮りや風景の写真は撮りにくかったんだ。ぼくは、ブツ撮りやスナップは絞りきったような厳しい描写が好きなんだ。だから、専らマイクロフォーサーズを使っていた。ただ、マイクロフォーサーズにも難点がある。受光素子が小さいので暗いところが苦手だ。これは致し方ないとはいえ、他の手段に訴えるしかない。
          そこで使っているのがα7sということになるのだが、これもまた、普通のひとが選ぶカメラではない。あいほんと同じ解像度しかないので、普通絵の精細さ大きさにがっかりするだろう。たど、マイクロフォーサーズと比べると素子のサイズで4倍、解像度で半分しかない。1受光素子単位あたり8倍?の面積で光を受け止めることができるので暗いところもへっちゃらなのだ。こいつが暗いところで演じられるライブの撮影にももってこいなんだ。おまけに、電子シャッターも搭載されているので無音撮影ができる。これもライブでの撮影では代えがたいものだ。これは一眼では不可能なことなんだ。一眼を電子シャッターにしてもミラーの上げ下げは必要になるから消せないのだよ。
          α7sも新型のii型が出たので、旧型になってしまったんだけど、値付けがあんまりなので買い替えはしていない。新旧の価格差が約2倍なんだよ。これはあんまりだ。
          新型の魅力はボディ内の手振れ補正が効くことくらいだ。4K撮影はしないというよりか、あとのレンダリングに時間がかかりすぎるのと再生環境がほとんどPCなので今後とも4Kを使うことはないと考えている。

          というようなわけで、旧式の7sが大活躍というわけだ。



          バックは、この小さめのバッグに全部詰め込んでしまう。


          基本的にBatis1.8/85を使うことが多い。もちろん、小さなライブハウスでは短すぎるので、デジタルズームで160mm相当までトリミングすることもしばしばだ。
          そんなことなら、70-200/4を使えばという声も聞こえそうだが、要はF1.8の160mmなんだよ。これは多少の画像劣化があっても絵として魅力的だ。
          このレンズは85mmのように描写優先のレンズに珍しく手振れ補正が搭載されている。こいつはとっても使い勝手が良い。動画でも機能します。おまけに少しでかいが軽いんだよ。ぼくは、αシステムの85mmの決定版だと思っている。

          スポーツ撮影や飛びもの走りものを撮らないぼくにとっては、αはほぼ弱点はないのだが、唯一と言っていい弱点は電池が持たないことだ。なのでグリップは必須なんだ。普通の45分ステージ二本なら動画撮影で確実に二本は必要になる。

          ピンの引きでは、専ら50mmを使う。このレンズの描写も取り回しも素晴らしい。


          これは正直まだあまり使ってないのでなんとも言えないけど、評判は85mmより良いようだ。ぼくは、25mmはLoxiaで欲しかったというのが本音だ。ここまででかいとね。普段使いの画角には使いにくい。

          上記にF4通しをサブで持ってくか、行かないかというのが今のスタイルだ。


          もちろん、ミノルタからのα使いの意地で24-70/2.8GMも入手している。でもね、使わないなぁ・・・確かにこれ一本で2.8を5本分というのは魅力ではある。
          解像感も素晴らしい。F4通しがかわいそうになるくらいだ。でもね、重くてねえ・・・長玉なのでフロントヘビーになる。7との組み合わせでは三脚座が欲しいくらいだ。なので、持ち出すことはない。

          これはムリがあるやろ?

          2016/06/14

          160614 第4弾キュウリ定植


          第1弾第2弾のキュウリがモザイク病らしきものに罹ったので全撤収のあと。同じ場所に買ってきた苗を植えた。念のため、接ぎ木で用意。





          これがなんの病気なのかは研究課題。葉脈のセルごとに出ているのでモザイク病ではないかと思うが、誰かに聞いてみなくては。

          ブルースの歴史16 シカゴブルース5 – ロバート・ロックウッド・ジュニア Robert Lockwood Jr.

          ロバート・ロックウッド・ジュニア(Robert Lockwood Jr.または Robert Jr. Lockwood、1915年3月27日 - 2006年11月21日)は、アメリカ合衆国出身のブルースギタリスト歌手1950年代から1960年代にかけてチェス・レコードをはじめとするシカゴのレベールと契約し、作品を残した。また、長きに渡ってサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの共演者であったことでも知られている。

          来歴

          幼少期

          アーカンソー州ヘレナの西に位置する村、ターキー・スクラッチ生まれた。8歳の頃から彼の父親の教会でオルガンを習い始めた。両親は離婚し母親に引き取られたが、彼女が再婚した相手が後に広く知られることになるブルース・ミュージシャン、ロバート・ジョンソンだった。ロックウッドは未だ10歳頃、彼からギターを教わり出した。ジョンソンの教え方は手本を1度切りしか見せてはくれない厳しいものだったが、一度基礎を理解したロックウッドはそれを砂漠が水を浸み込ませるように吸収していった。ロックウッドはさらに、ジョンソンから演奏のタイミングやステージでの立ち振る舞いなど、プロのミュージシャンとしての数々を教わった。それらは後に、ジョンソンの音楽的な個性やプロ魂を継承するロバート・ジュニア・ロックウッドのふたつ名を彼に与えることとなった。

          プロ活動初期

          15歳の頃にはヘレナ地区のパーティーなどでプロとしての演奏をこなしていたロックウッドは、ジョンソンやサニー・ボーイ、ジョニー・シャインズらともしばしば共演していた。1930年代、彼はジューク・ジョイント(ブルースを聞かせるくだけた盛り場)やフィッシュ・フライ(ジューク・ジョイントなどで料理「フィッシュ・フライ」を主餐に行われた週末のパーティー)、時にはストリートミュージシャンとしてミシシッピ川のデルタ地帯一帯で演奏活動を行った。公式ページによると、サンフラワー河の両岸でギターを爪弾くロックウッドと継父ジョンソンの演奏を1km離れた橋の上から聞いたクラークスデイルの人々は、どちらがどちらか聞き分けられない程に、既に彼の演奏技術は継父と遜色無いレベルに達していたとの逸話を伝えている。

          1938年から1939年にかけて、サニー・ボーイとクラークスデイルで共演。また1938年前後には、メンフィスで、ハウリン・ウルフを始めとするブルース・ミュージシャンと共演している。1939年から1940年にかけては活動域を拡げ、ミズーリ州セントルイスイリノイ州シカゴ、ヘレナの3か所を行き来して活動した[1]。またこの頃、メンフィスでB.B.キングとステージを共にしたことがあり、ロックウッドは彼に音楽上の影響を及ぼしたとも言われている。

          円熟期へ

          1941年、ロックウッドはドク・クレイトンと自身初のレコード録音となった『ブルーバード』セッションをイリノイ州オーロラ市で行った。このアルバムはブルーバード・レコードから発売され、さらにこの中から定番のレパートリーの中でも特にお馴染みの4曲が彼の名でシングルカットされた。

          また同年11月21日には、サニー・ボーイとともにヘレナ地区にあるKFFAラジオの現在も続くブルース専門の長寿番組『キング・ビスケット・タイム』の司会進行を務め始め、番組中でバンド『キング・ビスケット・エンターテナーズ』を結成、生演奏を披露した。このペアはラジオ出演以外にもヘレナ地区を中心に公演も行った。

          一方でロックウッド自身の活動も1940年代後半まではアーカンソー州を拠点としていた。しかし1950年にはシカゴに移り住みサニー・ボーイのチェス・レコードから発売された2枚目のアルバムにウィリー・ディクソンオーティス・スパンらとともに加わった。その他にも、リトル・ウォルターサニーランド・スリムエディー・ボイドマディ・ウォーターズらとの共演も果たした。

          晩年の活躍

          1961年にはオハイオ州クリーブランドに移住。 1960年代半ばに一度引退。しかし1972年にカムバックした。1980年代初頭からはジョニー・シャインズと活動を共にし、また日本で出演したライブもアルバム化している。1989年にはブルースの殿堂入りを果たした。

          ロックウッドは同じような評価を得るどのミュージシャンよりもインスピレーションに富んだ偉大な人物だった。ひとたび彼がステージに上がり12弦ギターを奏で始めると、聴衆は誰もがそこにブルースを感じた。

          晩年も活発な音楽活動に取り組みつつも、住居があるクリーブランドでは毎週水曜日の夜8時に都心部のレストラン・バー『Fat Fish Blue』で演奏を聞かせていた。

          2006年11月21日、呼吸不全に陥り、入院先のケース大学医療センターで亡くなった。

          ディスコグラフィー

          1972年 ステディ・ローリン・マン – Steady Rollin’ Man (Delmark)

           

          1975年 ブルース・ライブ 2 (with the Aces) - "Blues Live! II" (VIVID SOUND)

          1980年 "Mr. Blues Is Back To Stay" (with Johnny Shines) (Rounder)

          1982年プレイズ・ロバート・ジョンスン – Plays Robert And Robert(Evidence/Black & Blue)

          1985年 アニーズ・ブギ~ライブ・イン・ジャパン1985 – Annie's Boogie (P-Vine) *DVD

          1991年 ブルース・ウィズ・ア・グルーヴ - What's The Score? (P-Vine/Lockwood Records)

          1995年 Pヴァイン-ブルースの巨人13 – P-Vine presents 21 Blues Giants (P-Vine)※

          1996年 スウィング・イン・トーキョー~ライブ・アット・パークタワー・ブルース・フェスティバル’95 – Swing in Tokyo: Live at the Park Tower Blues Festival ‘95 (P-Vine)

          1997年 アイ・ガット・トゥ・ファインド - "I Got To Find Me A Woman" (Verve/Gitanes)

          1999年 Complete Trix Recordings (Savoy Jazz)※

          2000年 Delta Crossroads (Telarc)

          2004年 ザ・レジェンド・ライヴ2003 – The Legend Live (P-Vine/M.C. Records)

          ROBERT JR. LOCKWOOD 神LIVE IN TOKYO①/「Hear To This」

          ROBERT JR. LOCKWOOD 神LIVE②/「Ain`t Nobody`s Business」

          ROBERT JR. LOCKWOOD 神LIVE IN TOKYO③/「Everyday I Have The Blues」


          ROBERT JR. LOCKWOOD 神LIVE IN TOKYO④/「Worst Old Feeling」

           


          ロバート・ロックウッド・ジュニア ROBERT JR. LOCKWOOD: LIVE 1984 in STORYVILLE; Angel Child-They Gonna Ball Tonight


          Robert Lockwood, Jr. - Sweet Home Chicago

          2016/06/13

          ブルースの歴史15 シカゴブルース4–エディー・テイラー Eddie Taylor

          Eddie Taylor (January 29, 1923 – December 25, 1985)[1] was an American electric blues guitarist and singer.[2]

          Biography

          Born Edward Taylor in Benoit, Mississippi, as a boy Taylor taught himself to play the guitar. He spent his early years playing at venues around Leland, Mississippi, where he taught his friendJimmy Reed to play the guitar.[3] With a guitar style deeply rooted in the Mississippi Delta tradition, in 1949 Taylor moved to Chicago, Illinois.

          While Taylor never achieved the stardom of some of his compatriots in the Chicago blues scene, he nevertheless was an integral part of that era. He is especially noted as a main accompanistfor Jimmy Reed, as well as working with John Lee Hooker, Big Walter Horton, Sam Lay,[4] and others. Earwig Music Company recorded him with Kansas City Red and Big John Wrencher on the album, Original Chicago Blues.[5] Taylor's own records "Big Town Playboy" and "Bad Boy" on Vee Jay Records became local hits in the 1950s. Later in his "semi-retirement" Eddie returned to be the regular lead guitarist with the "Peter Dames and the Chicago River Blues Band" and later to be known as "Peter Dames and the Rhythm Flames"

          Taylor's son Eddie Taylor Jr. is a blues guitarist in Chicago, his stepson Larry Taylor is a blues drummer and vocalist, and his daughter Demetria is a blues vocalist in Chicago. Taylor's wife Vera was the niece of bluesmen Eddie "Guitar" Burns and Jimmy Burns.

          Taylor died on Christmas Day in 1985 in Chicago,[1] at the age of 62, and was interred in an unmarked grave in the Restvale Cemetery in Alsip, Illinois. He was posthumously inducted into theBlues Hall of Fame in 1987.


          EDDIE TAYLOR 1983

          2016/06/12

          ブルースの歴史14 シカゴブルース3 - サニー・ボーイ・ウィリアムソンII Sonny Boy Williamson II

          サニー・ボーイ・ウィリアムソンII (Sonny Boy Williamson II, (1899年12月5日 - 1965年5月25日) は、米国ミシシッピ州出身のブルースハーモニカ奏者。本名は、アレック・ミラー。晩年の1950年代から60年代にかけて、チェス・レコード傘下のチェッカー・レコードから数多くの作品を生み、シカゴ・ブルースの歴史に大きな足跡を残した。通常、芸名の末尾にII(あるいはII世)が付けられるが、これは先に同じ芸名を名乗っていたジョン・リー・ウィリアムソンと区別するため。一方ジョン・リーはサニー・ボーイI(あるいはI世)と称される。両者に血縁関係があるわけではなく、I世の成功にあやかりたいII世が無断で芸名を拝借したものである。皮肉なことに結果的にII世はI世を凌ぐ成功を収めた。
          来歴
          ウィリアムソンの生年月日は1899年12月5日とする資料が比較的多いが、1897年1901年1909年など諸説があり、正確なところは判っていない[1]。生まれたのは、ミシシッピ州グレンドーラ近郊のプランテーションであった。彼の幼少期については、多くが謎に包まれている。本名ひとつとってもラスト・ネームを「フォード」とする説と「ミラー」とする説があるなど、決定的な情報はない。独学でハーモニカを学び、他にギター、ドラムスも学んだという。
          1930年代頃から、ミシシッピ州とアーカンソー州を一帯を放浪し、その過程でエルモア・ジェームスブラインド・レモン・ジェファーソンロバート・ロックウッド・ジュニアらブルースマンと出会う。当時彼は、リトル・ボーイ・ブルーという芸名で活動していた[2]
          1941年アーカンソー州ヘレナのラジオ局KFFAで始まったブルース番組「キング・ビスケット・タイム」にロバート・ロックウッド・ジュニアとともに出演するようになった。彼がサニー・ボーイを名乗り出したのはこの頃であり、番組のスポンサーだったインターステート・グロサリーのオーナー、マックス・ムーアは彼がその名前を使うことを提案したと主張している。レコードは出していなかったが、この番組出演により南部一帯でサニー・ボーイの人気は高まっていく。
          番組のリスナーの中には後にザ・バンドのドラマーとして活躍するリヴォン・ヘルムもいた。彼は自叙伝の中で、当時のウイリアムソンについて以下のように述べている。
          オーバーオールに麦わら帽をかぶった、じかに見るサニー・ボーイは、迫力に満ちた印象的な人物であった。分厚い唇は長年ハーモニカを吹いてきたせいで硬くなっていた。ぼくは彼がハーモニカに向かって歌っているのに気づいた。彼の声は金属製のハーモニカを通って、剃刀の刃のように研ぎすまされてから、マイクに到達する。それが歌に、特別な金属的な衝撃のエネルギーをくわえる。

          1951年、ウィリアムソンはミシシッピ州ジャクソントランペット・レコードで初レコーディングを行う。エルモア・ジェームスらをバックに、ブギ・ナンバーを中心としたサウンドを披露している。
          1955年、シカゴのチェス・レコード傘下のチェッカー・レコードと契約。この頃から拠点も南部からシカゴへ移している。同年、チェッカーにおける初セッションでレコーディングされた

          "Don't Start Me To Talkin'"
          がR&Bチャートの3位を記録する。その後も

          "Keep It To Yourself" (1956年; 同16位)、

          "Help Me" (1963年; 同24位)とヒットを生んでいる。。チェッカーのウィリアムソンはトランペット時代よりもぐっとモダンなサウンドとなり、また彼のハーモニカのプレイは、シカゴ・ブルースにおける基本形として、多くの後続プレイヤーに影響を与えた。
          1963年には、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のため、初めてのヨーロッパ・ツアーを行った。1964年にも再度同フェスティバルに出演した。この間、ウィリアムソンはイギリスアニマルズヤードバーズジミー・ペイジとレコーディングを行っている。
          1965年5月25日、再びキング・ビスケット・タイムに出演するためヘレナに戻っていたウィリアムソンは、心臓発作により他界した。亡くなった直後にアルバムThe Real Folk Bluesが発表された。

          2016/06/11

          ブルースの歴史13 シカゴブルース2– ハウリン・ウルフ Howlin' Wolf

          220px-Howlin'_Wolf_1972ハウリン・ウルフHowlin' Wolf1910年6月10日 - 1976年1月10日)は、アメリカミシシッピ州ウェストポイント生まれの黒人ブルース・シンガー。本名チェスター・アーサー・バーネット。ステージ・ネームが物語るように、強烈なダミ声で鮮烈な印象を残した。
          「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第31位[1]
          「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第54位。
          Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第46位[2]
          略歴
          1940年代頃から、メンフィスを拠点に音楽活動を行っていたが、デビューしたのは1951年と遅咲きである。デビュー後はチェスと契約、長きに渡って同社から作品を発表していった。1952年シカゴに移る際、ギタリストのウィリー・ジョンソンがシカゴ行きを嫌ったため、後任のギタリストとしてヒューバート・サムリンが迎えられた。1954年に初めてセッションに参加して以来ウルフが亡くなるまで、サムリンは相棒として活躍し、個性的なプレイで徐々にウルフのサウンドの中で存在感を増すようになった。 1959年、ウルフは初のLP『モーニン・イン・ザ・ムーンライト』を発表し、『ハウリン・ウルフ』、『リアル・フォーク・ブルース』、『モア・リアル・フォーク・ブルース』、『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッション』、『チェンジ・マイ・ウェイ』などのLPをチェスから発表した。 1968年11月、当時の流行に乗る形でサイケデリックな問題作「The Howlin' Wolf Album」をレコーディング。マディ・ウォーターズの「Electric Mud」の続編とも言える内容だが、マディがそのコンセプトに乗り気であったのに対し、ウルフはそれを嫌いレコーディングの際に3日間家に立てこもったというエピソードも残っている。[3]あくまでも己を通したウルフの姿勢を窺わせるエピソードである。 1970年代に入るとウルフは交通事故の後遺症などもあり、体調を崩し往年の勢いを失っていく。しかし、そのような状況下でも現役であり続ける。1972年にはライヴ盤「Live and Cookin' (At Alice's Revisited)」、1973年にはスタジオ盤「The Back Door Wolf」をリリースした。後者が彼のラスト・アルバムとなった。1976年イリノイ州ハインズで亡くなる。
          ロックに与えた影響
          ウルフの個性と存在感はクリームローリング・ストーンズら1960年代に活躍したイギリスのロッカーたちに大きな影響を与えており、これまで、多くのバンドやミュージシャンにより、ウルフの曲(またはウィリー・ディクスンがウルフのために書き下ろした曲)がカバーされてきた。また、レッド・ツェッペリンの「レモン・ソング」は、ウルフの「キリング・フロア」がオリジナルである。 ロンドンでレコーディングされた『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッション』には、ウルフに憧れる英国ロッカーが大挙参加。エリック・クラプトンスティーヴ・ウィンウッド、ローリング・ストーンズのビル・ワイマンチャーリー・ワッツ、ローリング・ストーンズのサポート・メンバーだったイアン・スチュアートを中心に、一部の曲には元プラスティック・オノ・バンドクラウス・フォアマンや、元ビートルズリンゴ・スターも参加。


          Howlin' Wolf - Moanin' in the Moonlight FULL ALBUM [1959]

          2016/06/10

          ブルースの歴史12 シカゴブルース1– マディ・ウォーターズ Muddy Waters

          800px-Muddy_Watersマディ・ウォーターズMuddy Waters, 1913年4月4日 - 1983年4月30日)は、米国ブルースシンガーギタリスト。本名は、マッキンリー・モーガンフィールド(McKinley Morganfield)。シカゴにおいてエレキ・ギターを使ったバンド・スタイルのブルースを展開し、シカゴ・ブルースの形成に大きな足跡を残したことから、「シカゴ・ブルースの父」と称される。生涯に6度グラミー賞を受賞し[1]、没後の1987年にはロックの殿堂入りを果たした[2]
          その豊富で深淵な声、豪快なボトルネック・ギター、カリスマ的キャラクターで、ブルースの第一人者のひとりとなった。ロック界においても、ローリング・ストーンズエリック・クラプトンロリー・ギャラガーポール・ロジャースザ・バンドなど、彼から影響を受けたミュージシャンは多く、その影響力は計り知れない。
          「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第53位[3]
          「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第17位。
          2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第49位。
           
          来歴
          クラークス郊外ストーヴァルのプランテーションにて幼少期を過ごす。泥んこになって遊ぶのが大好きだったことから、マディ・ウォーターズ(泥水)とのニックネームで呼ばれるようになった。7歳でハーモニカを始め、のちにギターに転向。当時の彼のアイドルは、サン・ハウスロバート・ジョンソンらであった。 なお、1915年ミシシッピ州ローリング・フォーク生まれとされてきたが、近年の研究[4]により1913年にミシシッピ州のアイザッキーナ・カウンティとするのが定説となっている。
          1941年8月、国会図書館のフィールド・レコーディングのためにミシシッピ州を訪れたアラン・ローマックスが、ストーヴァルでウォーターズをレコーディングする。これが彼の初レコーディングとなった。1943年イリノイ州シカゴに移住。1946年にはコロンビアでレコーディングを行っている。
          1947年、サニーランド・スリムに誘われ、アリストクラット・レーベル(後のチェス・レコード)のレコーディングに参加。これは、スリムのバッキングをするためであったが、マディも

          "Gypsy Woman"、

          "Little Anna Mae"の2曲をレコーディングした。これが彼のレーベルからのデビュー盤となった。このときの編成はスリムのピアノ、ビッグ・クロフォードのベースのみをバックにつけたもので、まだバンド・スタイルではなかった。
          バンド・スタイルでレコーディングするようになったのは、1950年のパークウェイのセッションから。リロイ・フォスターリトル・ウォルターがヴォーカルを取るセッションではあったが、初めてウォルターがハーモニカをプレイするなど、実質的にマディ・ウォーターズ・バンドの始動とも言える内容であった。パークウェイに負けじと、続いてチェスもマディをバンド・スタイルでレコーディングするようになった。1953年にはオーティス・スパン1954年にはウィリー・ディクスンがレコーディングに加わるようになり、マディのバンドの形が完成する。同年、


          "I'm Your Hoochie Coochie Man"、

          "I Just Want To Make Love To You"など、彼の代表曲となる曲がレコーディングされた。1955年にも

          "Mannish Boy"などがヒットする。1958年には、初のイギリス・ツアーを体験する。
          1963年、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のために渡欧。翌年、当時のフォーク・ブームに乗る形でアルバム『Folk Singer』をリリースした。同作には、ギターにバディ・ガイが参加している。この年もフェスティバルのために再度渡欧した。
          1968年、異色作『Electric Mud』をリリース。これは、ロック・ファンにアピールするために、大胆にサイケデリックなアレンジを施した作品であった。ロックへの傾向は続く1975年の『Woodstock Album』でさらに顕著となる。ここではザ・バンドリヴォン・ヘルムガース・ハドスンポール・バターフィールドなどロックミュージシャンが参加している。翌1976年には、ザ・バンドの解散コンサート、「ラスト・ワルツ」に出演。ザ・バンドをバックに

          "Mannish Boy"を歌う様子は、同名のドキュメント映画に記録されている。
          1977年ジョニー・ウィンターと組んでブルー・スカイよりアルバム『Hard Again』をリリース。また、同年リリースされたウィンターのアルバム『Nothin' But the Blues』のレコーディングに参加。以後、ウィンターのサポートを得て1981年までに計4枚のアルバムをリリースした。



          1980年5月、唯一の来日公演を行う。
          1983年、イリノイ州ウェストモントにて68歳で死去。シカゴ近郊のオールシップにあるレストヴェール墓地に埋葬された。
           
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          1. I Just Want To Make Love To You 2:49 (Willie Dixon)


          2. Long Distance Call 2:38 (McKinley Morganfield)


          3. Louisiana Blues 2:49 (McKinley Morganfield)


          4. Honey Bee 3:20 (McKinley Morganfield)


          5. Rollin' Stone (McKinley Morganfield)

          6. I'm Ready 3:01 (Willie Dixon)

          7. Hoochie Coochie 2:49 (Willie Dixon)

          8. She Moves Me 2:54 (McKinley Morganfield)

          9. I Want You To Love Me 3:01 (McKinley Morganfield)

          10. Standing Around Crying 3:19 (McKinley Morganfield)

          11. Still A Fool 3:14 (McKinley Morganfield)

          12. I Can't Be Satisfied 2:41 (McKinley Morganfield)















          ブルースの歴史11 シカゴブルース

          シカゴ・ブルース (Chicago blues)とは、米国イリノイ州シカゴにおいて1950年頃に登場したブルースのスタイルのひとつ。主にアコースティック・ギターの弾き語りで演奏されたアメリカ深南部デルタ・ブルースエレキ・ギターを持ち込み、バンド・スタイルに発展させたものであった。代表的なアーティストにはマディ・ウォーターズが挙げられる。彼は、シカゴ・ブルース創世記にそのスタイルを作り上げた一人である。
          略歴
          シカゴ・ブルースの誕生の背景には、第2次世界大戦時に頂点を迎えたアフリカ系アメリカ人(黒人)の大移動がある。その流れを受けて1930年代から50年代にかけて、南部の州からシカゴへ多くのブルース・ミュージシャンが移住した。彼らが、シカゴにおいて南部のブルースに新たな息吹を吹き込んだのである。彼らはライヴハウスを始め、マックスウェル・ストリート(路上でフリー・マーケットとともにライヴ演奏が展開された)などでも演奏を展開した。路上での演奏はより大きな音を出すことを必要とし、これもシカゴ・ブルースがエレキ化、バンド化へ進んだ要因と言われている。
          初期のシカゴ・ブルースにおいては、主たるリード楽器はハーモニカであった。ギターはデルタ・ブルース同様、主に伴奏楽器として使用された。しかし50年代後半、マディよりも若い世代のオーティス・ラッシュバディ・ガイマジック・サムらの登場により、シカゴ・ブルースは新たな局面を迎える。彼らは、ギターをリード楽器として前面に押し出し、それまでのブルースの概念を打ち破った。彼らのサウンドは彼らがシカゴのウェスト・サイドで主にプレイしていたことから「ウェスト・サイド・サウンド」となどと呼ばれた。以後、ギターはブルースの主たるリード楽器として、その重要性を高めていく。
          1960年代に入ると、イギリスにおけるブルース・ブームなどと共に、ヨーロッパを始めより広範囲で注目されるようになり、シカゴのミュージシャンの活動の場も広がっていく。その流れの中で、シカゴ・ブルースも音の幅が広がっていった。ポール・バターフィールド・ブルース・バンドマイク・ブルームフィールドを始め、白人のプレイヤーも増えていった。エレクトリック・スタイルのブルース・バンドも増えてきたが、1965年くらいからシカゴのブルース・シーンは下火になって行く。
          今日では、世代交代ともにシカゴのブルース・ミュージシャンたちも、かつてのように南部出身の層は少数派となり、都市部で生まれ育った人々が多くなっている。これに伴い、シカゴ・ブルースも多様化している。
          シカゴでは、バディ・ガイズ・レジェンズ、ローザス、アーティス・ラウンジ、キングストン・マインズといったブルース・クラブで連日、ブルースのライヴが展開されている。また例年6月には、米国最大のブルース・フェスティバルであるシカゴ・ブルース・フェスティバルが開催されており、ブルースの街としてのシカゴの存在を世界にアピールしている。
          レコード会社
          シカゴのブルース・シーンはレコード業界の歴史でもあり、1950年代の中頃迄にはサウス・サイドにチーフ・レコード、コブラ・レコード、チェス・レコードがたちあがり、シカゴに事務所を移転してきたデルマーク・レコードヴィージェイ・レコード等が揃い一世を風靡した。1960年代末ごろにはほとんどのレーベルが大手のレーベルに権利を譲渡するか閉鎖、移転などをしている。ただ1970年代初頭にデルマークにいたブルース・イグロアがたちあげたアリゲーター・レコードがブルース・ミュージシャンの支えとなり、アリゲーターは現在までブルース音楽のトップのレコード・レーベルとして存続している。
          代表的なアーティスト
          シンガー
          マディ・ウォーターズ
          ハウリン・ウルフ
          ココ・テイラー

            ギタリスト
              ロバート・ロックウッド・ジュニア
              ジョン・ブリム
              アール・フッカー
              ジミー・ロジャーズ
              ロバート・ナイトホーク
              オーティス・ラッシュ
              バディ・ガイ
              マジック・サム
              ハウンド・ドッグ・テイラー
              ルリー・ベル
              カルロス・ジョンソン
              サン・シールズ
              ロニー・ブルックス
              フェントン・ロビンソン
              ジョン・プライマー

                ハーピスト (ハーモニカ)
                  サニー・ボーイ・ウィリアムソンII
                  リトル・ウォルター
                  ジェイムズ・コットン
                  ジュニア・ウェルズ
                  スヌーキー・プライアー
                  ビリー・ブランチ
                  シュガー・ブルー
                  ポール・バターフィールド

                    ピアニスト
                      パイントップ・パーキンズ
                      サニーランド・スリム

                      2016/06/09

                      ブルースの歴史09 デルタブルース番外2 – ロニー・ジョンソン Lonnie Johnson

                      220px-LonnieJohnsonByRussellLee1941CropAlonzo "Lonnie" Johnson (February 8, 1899[1][2] – June 16, 1970) was an American blues and jazz singer, guitarist, violinist and songwriter. He was a pioneer of jazz guitar and jazz violin and is recognized as the first to play an electrically amplified violin.[3][4]



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                      The Very Best of Lonnie Johnson


                      1. I Am So Glad
                      2. What A Woman

                      3. Tomorrow Night

                      4. Friendless Blues

                      5. I Want My Baby

                      6. What A Real Woman

                      7. Fallin’ Rain Blues

                      8. Feeling Low Down

                      9. Drunk Again

                      10. Jelly Roll Baker

                      11. Working Man’s Blues

                      12. Chicago Blues

                      13. Feel So Lonesome

                      14. Tell Me Little Woman

                      15. Backwater Blues

                      16. Careless Love

                      17. She’s So Sweet

                      18. Trouble Ain’t Nothin’ But The Blues

                      19. Little Rockin’ Chair

                      20. Nothin’ Clickin’ Chicken

                      21. Nothing But Trouble

                      22. Me And My Crazy Self

                      23. Seven Long Days

                      24. Just Another Day
                      25. You Can’t Buy Love






















                      2016/06/07

                      ブルースの歴史08 デルタブルース番外– ライトニン・ホプキンス Lightnin' Hopkins

                      hopkins1ライトニン・ホプキンス(Lightnin' Hopkins、1912年3月15日 - 1982年1月30日)はアメリカブルースミュージシャン。本名はサム・ジョン・ホプキンス(Sam John Hopkins)。

                      「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第71位、2011年の改訂版では削除された。

                      1912年テキサス州センターヴィル生まれ。少年時代の1922年に、ブラインド・レモン・ジェファーソンに出会いギターを教わる。1927年にはいとこであるテキサス・アレクサンダーと共に テキサスにあるレインボー・シアターで演奏する。 レコードデビュー当時、よくコンビで演奏をしていたピアニストサンダー・スミスのサンダー(雷)にちなんで自らをライトニン(稲妻)と名乗るようになる。
                      黒いサングラスに葉巻をくわえたスタイルで演奏し、アメリカン・フォーク・ブルース・フェステイバルに出演したり、マンス・リプスカムと共演したりした。

                      初録音は1946年で、1959年に白人により再発見され、ようやく世界にその「ライトニン節」を轟かせる事になる。 アラジン・レコードから初のシングル

                      「Katie Mae Blues」をリリースし、ヒットを記録。 その後もR&Bチャートにランク・インするような曲を次々にリリースし、50年頃は

                      「ハロー・セントラル」がビルボードにチャートインするほど大変な人気ぶりで、カントリー・ブルース界でも極めて稀な存在となり、戦争を題材にした歌などもリリースする。

                      1930年代は放浪していることが多くヒューストンに移り住んだ後、ジューク・ジョイントで演奏やストリートでブルースを歌っていた。

                      ケンカが原因で、刑務所送りになったという辛い過去がある。 従事した仕事は架橋工事で、宿舎では寝る時も足を鎖で繋がれ、翌朝の食事の時に外されるなど、過酷な労働・生活が続いた。 彼の音楽には人生観がにじみ出て、ある種の安らぎ、人生の哀切や達観、希望が満ち溢れた音に、多くの人々が魅了されていった。

                      ライブではアメリカ各地の大学・ヨーロッパ等、どこも超満員だった。 語彙が豊富で、頭の回転の早い彼による心の奥底を探るような歌詞は、彼自身の気分によって抱腹絶倒の内容になることも、痛ましく荒涼とした内容になることもあった。彼はその場の雰囲気に合わせて即興で歌詞を作ってしまうことでも有名で、そのためライヴ・レコーディングでは、しばしば予想を超える内容になる等、エピソードには事欠かない。

                      1960年代の後半、ライトニンのホームタウンであるテキサス州ヒューストンで撮られたドキュメンタリー・フィルム『ライトニン・ホプキンスのブルース人生』には、飾らない素顔や生活ぶりが記録されている。

                      生涯に百枚以上のアルバムをリリースしていると言われ、現在もブルース・ファンに人気の高いギタリストである。ブルースの歴史を研究する上で、欠かす事の出来ない存在である。

                      代表作は、『アラジン・レコーディングス』(1946-1948) 『ライトニン・ホプキンス』(1959) 『モジョ・ハンド』(1960) 『ライトニン・ストライクス』(1962) 『テキサス・ブルースマン』(1962)など多数。

                      1978年に最初で最後の日本公演を行っている。 1982年により死亡。