2016/06/06

ブルースの歴史07 デルタブルース06–ブッカ・ホワイト Bukka White

ブッカ・ホワイト (Bukka White) として知られる、ブッカ・T・ワシントン・ホワイト(Booker T. Washington White、1909年11月12日 -1977年2月26日)[1]は、アメリカ合衆国のデルタ・ブルースのギタリスト、歌手。「ブッカ (Bukka)」という通称は、ホワイトの本名 (Booker) を音写したもので、1937年にVocalionレーベルから出た2枚目のレコードで、初めてこの表記が用いられた。

51S-u9SRPNL

Complete Bukka White

1. Pinebluff, Arkansas

 

 

 

 

2. Shake 'Em On Down

3. Black Train BLues

4. Strange Place Blues

5. When Can I Change My Clothes?

6. Sleepy Man Blues

7. Parchman Farm Blues

8. Good Gin Blues

9. High Fever Blues

10. District Attorney Blues

11. Fixin' To Die Blues

12. Aberdeen Mississippi Blues

13. Bukka's Jitterbug Swing

14. Special Streamline

Booker White - Poor Boy Long Way from Home

2016/06/05

ブルースの歴史06 デルタブルース05 - サン・ハウス Son House

ウィキではサンハウスが抜けている。この人は後に再発掘され歴史に埋もれることはなかった。

 

41A5WBVPRXL伝説のデルタ・ブルース・セッション1930

SONHOUSE サン・ハウス&チャーリー・パットン

1. All Night Long Blues(ルイーズ・ジョンスン)

2. Long Ways From Home(ルイーズ・ジョンスン)

3. My Black Mama(Part1)(サン・ハウス)

4. My Black Mama(Part2)(サン・ハウス)

5. Preachin’ The Blues(Part1)(サン・ハウス)

6. Preachin’ The Blues(Part2)(サン・ハウス)

7. M&O Blues(ウィリー・ブラウン)

8. Future Blues(ウィリー・ブラウン)

9. On The Wall(ルイーズ・ジョンスン)

10. By The Moon And Stars(ルイーズ・ジョンスン)

11. Dry Spell Blues(Part1)(サン・ハウス)

12. Dry Spell Blues(Part2)(サン・ハウス)

13. Dry Well Blues(チャーリー・パットン)

14. Some Summer Day(Part1)(チャーリー・パットン)

15. Moon Going Down(チャーリー・パットン)

16. Bird Nest Bound(チャーリー・パットン)

2016/06/04

ブルースの歴史05 デルタブルース04 - アーサー・"ブラインド"・ブレイク Arthur "Blind" Blake

41ma-kJBCnLアーサー・"ブラインド"・ブレイク(Arthur "Blind" Blake, 1896年 - 1934年12月1日)は、主に1920年代のアメリカで活躍したブルース及びラグタイムギタリスト。"The King of Ragtime Guitar"と称される。
1926年 - 1932年までにおよそ80トラックをパラマウントレコードにおいて残している。 同時代の他にギタリストと比べ、もっとも洗練された完成度の高い技法を用い、センスのよいギターを弾いている。 その技法はまるでラグタイムピアノのようでもある。
最初の録音は1926年7月、シカゴにてヴォードヴィル・シンガーのLeona B. Wilsonのバックで弾いている。 翌月の8月には自分名義での初録音を行った

"Early Morning Blues":

"West Coast Blues"(Pm12387)がある。 最後の録音は1932年6月、ウィスコンシン州グラフトンでの録音で

"Champagne Charlie Is My Name" (L-1475):

"Depression's Gone From Me Blues"(L-1476)の2曲が知られている。また現在では音源の行方がわからない幻のレコードも2曲のカップリングで発売されていたことが明らかになっている(

"Miss Emma Liza" (L-1272-1 ): 
"Dissatisfied Blues" (L-1267-1,2))。その後は大恐慌に伴う同年のパラマウントレコードの録音停止(1935年に倒産し、1948年に復興)に伴い、彼の足跡は途絶えた。
現存する写真が一枚しかないなど彼の生涯に関してはこれまで不明な部分が多く、本名はアーサー・フェルプスという記述もあった。パラマウントの1927年発行されたプロモーショナルブックには「太陽の光が燦々と降り注ぐFloridaはJacksonvilleにて生まれた」とある。 またここではブレイクがブラインドの呼び名通り盲目であったことも記述されていた。
しかし、2011年になって死亡診断書が発見され、生年・出身地および家族構成、晩年に妻と共にミルウォーキーへ移住したが肺結核のために死去したことなどが判明し、墓地も発見された[1]。
プレイスタイル
ピアノサウンドのギターと称されたとおり、複雑に低音弦を絡ませた和音奏法を行う。独特のシンコペイトされたリズム感でベースラインを構築し 厚みのあるサウンドを表現している。ブレイクは同時代のブルースギタリストからの影響をまったく受けずに独自性を伴った点で特筆に価する。 ピッキングは爪で弾く繊細なサウンドとは異なり、指の腹ではじくようなスタイルで力強い。スタンブリングベースとも言われる手法は未だブレイクの域に達するものはいない。ギターサウンドは太く、ガット弦が使用されていた可能性もある。スタンブリング代表曲は"west coast blues"など。

2016/06/02

ブルースの歴史04 デルタブルース03 - ハンボーン・ウィリー・ニューバーン Hambone Willie Newbern

ハンボーン・ウィリー・ニューバーン Hambone Willie Newbern

もちろん古い話なのでよくわかってない人も居るのだ。この人は残した曲によって記憶されている。1988年に生まれ1947年頃監獄でなくなったとされている。
 ブルースの定石以前なので12小節を外した楽曲もある。
Hambone Willie Newbern (1899–1947)was an American guitar-playing country blues musician. His home community was in the Brownsville, Tennessee area along Tennessee State Route 19.[3] He was reported to have played with Yank Rachell and Sleepy John Estes (from whom most of our knowledge of Hambone was gained) in the 1920s and 1930s. He recorded one of the earliest known versions of the blues standard "Rollin' and Tumblin'" in 1929. He only recorded six tracks in total, which also included, "She Could Toodle-Oo" and "Hambone Willie's Dreamy-Eyed Woman's Blues."
Newbern was a hot-tempered man who eventually was beaten to death in a prison brawl, around 1947.
MI0001516427The Greatest Songsters: Complete Works (1927-1929)
Hambone Willie Newbern(アーティスト)
Document
[収録曲]
  1. James Alley Blues
  2. Never Let the Same Bee Sting You Twice
  3. I'm Not Jealous
  4. Mystery of the Dunbar's Child
  5. Sinking of the Titanic
  6. Frankie
  7. Nobody's Dirty Business
  8. Ain't No Tellin'
  9. Louis Collins
  10. Avalon Blues
  11. Big Leg Blues [#]
  12. Stack O' Lee Blues
  13. Candy Man Blues
  14. Got the Blues (Can't Be Satisfied)
  15. Blessed Be the Name
  16. Praying on the Old Camp Ground
  17. Blue Harvest Blues
  18. Spike Driver Blues
  19. She Could Toodle-Oo
  20. Nobody Knows (What the Good Deacon Does)
  21. Shelby County Workhouse Blues
  22. Way Down in Arkansas
  23. Hambone Willie's Dreamy-Eyed Woman's Blues
  24. Roll and Tumble Blues

2016/06/01

ブルースの歴史03 デルタブルース02 - ビッグ・ビル・ブルーンジー Big Bill Broonzy

ビッグ・ビル・ブルーンジー(Big Bill Broonzy , 1893年または1898年6月26日 – 1958年8月15日)は、生涯で300曲近くのブルースを作曲したアメリカ合衆国のブルース・シンガー、ギタリスト、作曲家。ミシシッピー州出身。
経歴
「ビッグ・ビル」は1893年または1898年6月26日(正確な年は不明)、ミシシッピ州スコット郡にウィリアム・リー・コンリー・ブルーンジー(William Lee Conley Broonzy)として生まれた。ブルーンジー自身は1893年生まれと主張したが、ブルーンジーの双子の姉妹のラニー・ブルーンジーは1898年生まれであることを証明した文書を所持していると主張した[1]。この時期、黒人男性が職を得たり軍に参加したりするのに実際の年齢に上乗せすることは普通であり、ブルーンジーのケースもしばしば起こりえることかもしれない。いずれにしても、ブルーンジーは1924年にミシシッピ州を離れてシカゴに到着し、そこで彼にギターを教えた(彼は以前はフィドル奏者であった)パパ・チャーリー・ジャクソン(w:Papa Charlie Jackson)と出会った。
ブルーンジーは最初にソロのシンガーとして1929年に録音し、そのスタイルで録音を続けた。1936年彼は、トラップス(ドラムス)とアコースティック・ベースと、ひとつ以上のメロディ楽器(ホーンもしくはハーモニカ)で構成された小さなグループを使った、最初のブルース歌手の一人となった。これで録音された盤は、通常は

「ビッグ・ビルと彼のシカゴ・ファイブ(Big Bill and his Chicago Five)」名義でリリースされた。当時、ブルーンジーはARCレコーズ系列のより安いレーベル(メロトーン、パーフェクト・レコーズなど)で録音していた。1939年、ARCがCBSに吸収されて、ブルーンジーはヴォカリオン(後のオーケー)に現れ、1945年以降はコロンビア・レコーズに移った。彼の最も知られた曲のひとつ、

「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」はこの頃に書かれた。彼の人生の大半では、寝台車のポーター、コック、鋳物工、守衛をして収入を稼いでいた。
この時期、ブルーンジーは通常サウスサイドのクラブで演奏し、また1930年代の間はメンフィス・ミニー(w:Memphis Minnie)と共にツアーをした。第2期のアメリカ音楽家連盟(w:American Federation of Musicians)が1948年に解散すると、ブルーンジーはマーキュリー・レコーズのレーベルとの契約を結ぶ機会に恵まれ、そこで彼は1951年にレコードを制作した。その後、ブルーンジーはフォーク・ブルースのルーツに戻り、1956年初めまでヨーロッパ中を広範囲にわたってツアーし、そして録音した。さらに英国で紹介されたことが、彼の知名度を大きくアップさせた。ブルーンジーの演奏を見た英国の聴衆は、彼の演奏技術に驚嘆の声をあげたと伝えられている。彼はシカゴ・ブルースのスタイルのパイオニアであり、1942年の初めにはエレクトリック楽器を導入していたにもかかわらず、彼の新しい白人の観衆たちは、彼にアコースティック・ギター一本だけで初期の曲を演奏するのを聞きたがり、それらの曲がより「正真正銘」であると考えられた。ブルーンジーは1956年にシカゴに戻り、演奏を続けた。スタッズ・ターケル、ウィン・ストラックとブルーンジーは「I Come for to Sing」と呼ばれるフォーク音楽の批評のツアーをした。ブルーンジーはシカゴのオールドタウンスクール・オブ・フォークミュージックを設立した教員の一人であった。ターケルは彼をこのグループの重要人物と評した[2]。ブルーンジーは開校の初日の夜に現れて、最初のクラスに彼の曲

「The Glory of Love」をどのように歌うのかを教えた[3] 。
彼は1958年に咽頭癌で亡くなり、イリノイ州ブルーアイランドのリンカーン墓地に埋葬された[4]。彼のフォーク・ブルース時代の間、彼はピート・シーガー(w:Pete Seeger)、ソニー・テリー(w:Sonny Terry)、ブラウニー・マギー(w:Brownie McGhee)、レッドベリーらと録音した。彼の初期のARC/CBSでの録音物に相当する曲は、CBSソニーの名曲集で再リリースされている。同じく、他の初期の録音は、後期のヨーロッパとシカゴでの1950年代の録音物と同様に、ブルース再発レーベルにまとめられている。
ブルーンジーは彼の1950年代初期の同時代の他の人のように華々しいエレクトリックのギタリストでは決してなかったので、彼はその時代の他の人ほどには有名ではなく、また1960年代の英国の「ブルース・リバイバル」の時期にも広範囲にわたってカバーされなかった。しかしながら、デレク・アンド・ザ・ドミノスが彼の曲「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」を、アルバム「いとしのレイラ(Layla and Other Assorted Love Songs)」で取り上げたことで多少の人気を得た。彼はアコースティックギター奏者として称賛されていて、マディ・ウォーターズ、メンフィス・スリム(w:Memphis Slim)、レイ・デイヴィスらの主なインスピレーションの源であった。
2007年9月のQ-Magazineでは、ローリング・ストーンズのロン・ウッドが、ギター音楽の中で彼のお気に入りがブルーンジーの曲であると言及された。その曲は

「ギター・シャッフル」で、「それは俺が演奏を学んだ最初の曲のひとつだけど、今でもそれを正しく演奏できないんだ」と語った。













2016/05/31

ブルースの歴史02 デルタブルース01 - チャーリー・パットン Charley Patton

 ブルースが生まれたのはアメリカ南部最奥部ミシシッピデルタ地方だという。黒人が綿花収穫時などに歌ったワークソングが起源らしい。コール・アンド・レスポンスなどもその名残だと言うことだ。
 片方で、神の音楽として西洋音楽と黒人の感性の混じったゴスペルが生まれ、世俗ではブルースが生まれた。当時の生活環境を考えるとその歌詞の内容は押してはかれるだろう。故に、悪魔の音楽とも言われたそうだ。
以下、思いつくままに腑分けして代表的な人物の解説をウィキから音源をYoutubeで引きながら、その歴史を学習してみようと思う。
 しばらくちとしんどいと思います。古い話だから我慢するしかないです。

チャーリー・パットン Charley Patton
生誕 1891 (1887, 1894) 年4月
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミシシッピ州エドワーズ
死没 1934年4月28日 サンフラワー郡インディアノラ
ジャンル デルタ・ブルース
担当楽器 ギター、ボーカル
共同作業者 
ウィリー・ブラウン
トミー・ジョンソン
ヘンリー "サン" シムズ
サン・ハウス
チャーリー・パットン(Charley (Charlie) Patton, 1891年 - 1934年)はデルタ・ブルースのギタリスト、シンガー。通称「デルタの声」。デルタ・ブルースを形作った一人であり、それを世に知らしめた第一人者。
来歴
1891年(1887年、または1894年の説あり)、ミシシッピ州ハインズ郡のエドワーズ近郊に十二人兄弟の一人として産まれる。家族は当時ジャクソンとヴィックスバーグの間にある農場で物納小作人(en)として働いていた。
1897年、家族は100マイル北のドッカリープランテーションへと移住。綿花の摘み取り等の仕事に従事した。
チャーリーは厳格な父の目を盗んではパーティーや盛り場へ出かけ、チャットマン一家(ミシシッピ・シークス)と共に演奏を繰り広げたり、その地に住んでいたギタリスト、ヘンリー・スローン(1918年、シカゴに移住)にギターを学んだりしながら、腕を上げていった。頻繁に演奏を共にしたミュージシャンとしてウィリー・ブラウン、トミー・ジョンソン、ジョー・マーティン、のちにサン・ハウスやハウリン・ウルフ、ロバート・ジョンソン、ヘンリー ”サン” シムズらがいる。
1929年6月14日、彼はインディアナ州リッチモンドに位置するゲネット・レコードのスタジオで初のレコーディングを行い、14曲を録音、その中の

「ポニー・ブルース(en)」が

「バンティー・ルースター・ブルース」とカップリングされてパラマウントより発売され、これは彼の代表曲の一つとなった。パラマウントではその後、グラフトンのスタジオにて二度のレコーディングが行われている。1929年冬のセッションではフィドラーのヘンリー・シムズが、30年においてはウィリー・ブラウンが四曲中二曲で参加している。
それ以降、極度の飲酒と煙草、不規則な生活、それに喉を切り裂かれかけたことも重なり、ひどい体調不良へと陥っていく中、1934年1月、彼はニューヨークにて内縁の妻バーサ・リーと共に、生涯最後となるレコーディングに望んだ。その中には有名な

「34ブルース」や

「オー・デス」等が含まれている。
約一ヶ月後、彼はニューヨークから自宅のあったホリー・リッジ(en)へと帰り、それからしばらく経った4月28日、サンフラワー郡インディアノラ近くのプランテーションにて、心臓発作を起こして死去。死亡証明書によると死因は「僧帽弁障害」。死に至るまでの数日を、彼は説教を行って過ごしたという。















2016/05/30

ブルースの歴史 01

 Wikiによるとこうだ。

歴史

250px-Partitura19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。
1903年、ミシシッピ州のデルタ地帯を旅行中だったW.C.ハンディ(英語版)が同州タトワイラーで、ブルースの生演奏に遭遇。この後、彼によってブルースは広く知らしめられることになった。この年を「ブルースの生誕の年」とする見方もあり、2003年はブルース生誕100年を記念してアメリカ合衆国議会により、「ブルースの年」と宣言された。
1920年、メイミー・スミスがオーケー・レーベルに初レコーディング。これがブルースのレコーディングとしては初と言われている。彼女の

"Crazy Blues"は、初年度75,000枚を売り上げるヒットを記録した。
戦前のアメリカにおいて、ブルースは米国深南部からセントルイス、シカゴ、ニューヨークなどへ北上し、各地でスタイルを変えながら発展した。元々ギターの弾き語り中心であったが、都市部に展開するにつれ、ピアノとギターのデュオ形式、バンド形式など、より都会的な洗練された形式へと変わって行った。都市部で展開されたブルースのスタイルをシティ・ブルースという。代表的なミュージシャンは、

リロイ・カーなど。しかし都会にあこがれる反面、故郷への想いが強く詩に影響を与えている歌が多い。
シカゴでは、1950年頃からエレクトリックのバンドによるブルースが登場した。デルタ・ブルースを基調とした泥臭いサウンドで、戦前のシティ・ブルースとは一線を画すものであった。このサウンドはシカゴ・ブルースと呼ばれるようになった。その代表格となるのが、

マディ・ウォーターズである。ロックンロールの巨匠、


チャック・ベリーもこの頃のブルースに大きく影響を受け、後のロックバンドにも受け継がれているといえる。
1960年代初めになると、イギリスでアメリカから多くのブルースのレコードが輸入され、同国でブルースのブームが起きた。その流れの中で、ローリング・ストーンズ、フリートウッド・マック、クリーム、アニマルズなど、ブルースに影響を受けたバンドが多く登場するようになった。

でもこれでは、あんまりだよね。先日、R&Bに関して書きかけたけど、やっぱこっちからやるべきだと思った。
 ここでは、デルタブルース、シティブルース、シカゴ・ブルースと言う分類に分けているが、こんなのはまぁ適当で良いと思う。

 現在、15本くらいはためてあるので毎日ひとりづつ更新予定です。