2016/06/13

ブルースの歴史15 シカゴブルース4–エディー・テイラー Eddie Taylor

Eddie Taylor (January 29, 1923 – December 25, 1985)[1] was an American electric blues guitarist and singer.[2]

Biography

Born Edward Taylor in Benoit, Mississippi, as a boy Taylor taught himself to play the guitar. He spent his early years playing at venues around Leland, Mississippi, where he taught his friendJimmy Reed to play the guitar.[3] With a guitar style deeply rooted in the Mississippi Delta tradition, in 1949 Taylor moved to Chicago, Illinois.

While Taylor never achieved the stardom of some of his compatriots in the Chicago blues scene, he nevertheless was an integral part of that era. He is especially noted as a main accompanistfor Jimmy Reed, as well as working with John Lee Hooker, Big Walter Horton, Sam Lay,[4] and others. Earwig Music Company recorded him with Kansas City Red and Big John Wrencher on the album, Original Chicago Blues.[5] Taylor's own records "Big Town Playboy" and "Bad Boy" on Vee Jay Records became local hits in the 1950s. Later in his "semi-retirement" Eddie returned to be the regular lead guitarist with the "Peter Dames and the Chicago River Blues Band" and later to be known as "Peter Dames and the Rhythm Flames"

Taylor's son Eddie Taylor Jr. is a blues guitarist in Chicago, his stepson Larry Taylor is a blues drummer and vocalist, and his daughter Demetria is a blues vocalist in Chicago. Taylor's wife Vera was the niece of bluesmen Eddie "Guitar" Burns and Jimmy Burns.

Taylor died on Christmas Day in 1985 in Chicago,[1] at the age of 62, and was interred in an unmarked grave in the Restvale Cemetery in Alsip, Illinois. He was posthumously inducted into theBlues Hall of Fame in 1987.


EDDIE TAYLOR 1983

2016/06/12

ブルースの歴史14 シカゴブルース3 - サニー・ボーイ・ウィリアムソンII Sonny Boy Williamson II

サニー・ボーイ・ウィリアムソンII (Sonny Boy Williamson II, (1899年12月5日 - 1965年5月25日) は、米国ミシシッピ州出身のブルース・ハーモニカ奏者。本名は、アレック・ミラー。晩年の1950年代から60年代にかけて、チェス・レコード傘下のチェッカー・レコードから数多くの作品を生み、シカゴ・ブルースの歴史に大きな足跡を残した。通常、芸名の末尾にII(あるいはII世)が付けられるが、これは先に同じ芸名を名乗っていたジョン・リー・ウィリアムソンと区別するため。一方ジョン・リーはサニー・ボーイI(あるいはI世)と称される。両者に血縁関係があるわけではなく、I世の成功にあやかりたいII世が無断で芸名を拝借したものである。皮肉なことに結果的にII世はI世を凌ぐ成功を収めた。
来歴
ウィリアムソンの生年月日は1899年12月5日とする資料が比較的多いが、1897年、1901年、1909年など諸説があり、正確なところは判っていない[1]。生まれたのは、ミシシッピ州グレンドーラ近郊のプランテーションであった。彼の幼少期については、多くが謎に包まれている。本名ひとつとってもラスト・ネームを「フォード」とする説と「ミラー」とする説があるなど、決定的な情報はない。独学でハーモニカを学び、他にギター、ドラムスも学んだという。
1930年代頃から、ミシシッピ州とアーカンソー州を一帯を放浪し、その過程でエルモア・ジェームス、ブラインド・レモン・ジェファーソン、ロバート・ロックウッド・ジュニアらブルースマンと出会う。当時彼は、リトル・ボーイ・ブルーという芸名で活動していた[2]。
1941年、アーカンソー州ヘレナのラジオ局KFFAで始まったブルース番組「キング・ビスケット・タイム」にロバート・ロックウッド・ジュニアとともに出演するようになった。彼がサニー・ボーイを名乗り出したのはこの頃であり、番組のスポンサーだったインターステート・グロサリーのオーナー、マックス・ムーアは彼がその名前を使うことを提案したと主張している。レコードは出していなかったが、この番組出演により南部一帯でサニー・ボーイの人気は高まっていく。
番組のリスナーの中には後にザ・バンドのドラマーとして活躍するリヴォン・ヘルムもいた。彼は自叙伝の中で、当時のウイリアムソンについて以下のように述べている。
“
オーバーオールに麦わら帽をかぶった、じかに見るサニー・ボーイは、迫力に満ちた印象的な人物であった。分厚い唇は長年ハーモニカを吹いてきたせいで硬くなっていた。ぼくは彼がハーモニカに向かって歌っているのに気づいた。彼の声は金属製のハーモニカを通って、剃刀の刃のように研ぎすまされてから、マイクに到達する。それが歌に、特別な金属的な衝撃のエネルギーをくわえる。
”
1951年、ウィリアムソンはミシシッピ州ジャクソンのトランペット・レコードで初レコーディングを行う。エルモア・ジェームスらをバックに、ブギ・ナンバーを中心としたサウンドを披露している。
1955年、シカゴのチェス・レコード傘下のチェッカー・レコードと契約。この頃から拠点も南部からシカゴへ移している。同年、チェッカーにおける初セッションでレコーディングされた

"Don't Start Me To Talkin'"
がR&Bチャートの3位を記録する。その後も

"Keep It To Yourself" (1956年; 同16位)、

"Help Me" (1963年; 同24位)とヒットを生んでいる。。チェッカーのウィリアムソンはトランペット時代よりもぐっとモダンなサウンドとなり、また彼のハーモニカのプレイは、シカゴ・ブルースにおける基本形として、多くの後続プレイヤーに影響を与えた。
1963年には、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のため、初めてのヨーロッパ・ツアーを行った。1964年にも再度同フェスティバルに出演した。この間、ウィリアムソンはイギリスでアニマルズ、ヤードバーズ、ジミー・ペイジとレコーディングを行っている。
1965年5月25日、再びキング・ビスケット・タイムに出演するためヘレナに戻っていたウィリアムソンは、心臓発作により他界した。亡くなった直後にアルバムThe Real Folk Bluesが発表された。

2016/06/11

ブルースの歴史13 シカゴブルース2– ハウリン・ウルフ Howlin' Wolf

220px-Howlin'_Wolf_1972ハウリン・ウルフ(Howlin' Wolf、1910年6月10日 - 1976年1月10日)は、アメリカのミシシッピ州ウェストポイント生まれの黒人ブルース・シンガー。本名チェスター・アーサー・バーネット。ステージ・ネームが物語るように、強烈なダミ声で鮮烈な印象を残した。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第31位[1]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第54位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第46位[2]。
略歴
1940年代頃から、メンフィスを拠点に音楽活動を行っていたが、デビューしたのは1951年と遅咲きである。デビュー後はチェスと契約、長きに渡って同社から作品を発表していった。1952年にシカゴに移る際、ギタリストのウィリー・ジョンソンがシカゴ行きを嫌ったため、後任のギタリストとしてヒューバート・サムリンが迎えられた。1954年に初めてセッションに参加して以来ウルフが亡くなるまで、サムリンは相棒として活躍し、個性的なプレイで徐々にウルフのサウンドの中で存在感を増すようになった。 1959年、ウルフは初のLP『モーニン・イン・ザ・ムーンライト』を発表し、『ハウリン・ウルフ』、『リアル・フォーク・ブルース』、『モア・リアル・フォーク・ブルース』、『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッション』、『チェンジ・マイ・ウェイ』などのLPをチェスから発表した。 1968年11月、当時の流行に乗る形でサイケデリックな問題作「The Howlin' Wolf Album」をレコーディング。マディ・ウォーターズの「Electric Mud」の続編とも言える内容だが、マディがそのコンセプトに乗り気であったのに対し、ウルフはそれを嫌いレコーディングの際に3日間家に立てこもったというエピソードも残っている。[3]あくまでも己を通したウルフの姿勢を窺わせるエピソードである。 1970年代に入るとウルフは交通事故の後遺症などもあり、体調を崩し往年の勢いを失っていく。しかし、そのような状況下でも現役であり続ける。1972年にはライヴ盤「Live and Cookin' (At Alice's Revisited)」、1973年にはスタジオ盤「The Back Door Wolf」をリリースした。後者が彼のラスト・アルバムとなった。1976年、イリノイ州ハインズで亡くなる。
ロックに与えた影響
ウルフの個性と存在感はクリーム、ローリング・ストーンズら1960年代に活躍したイギリスのロッカーたちに大きな影響を与えており、これまで、多くのバンドやミュージシャンにより、ウルフの曲(またはウィリー・ディクスンがウルフのために書き下ろした曲)がカバーされてきた。また、レッド・ツェッペリンの「レモン・ソング」は、ウルフの「キリング・フロア」がオリジナルである。 ロンドンでレコーディングされた『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッション』には、ウルフに憧れる英国ロッカーが大挙参加。エリック・クラプトン、スティーヴ・ウィンウッド、ローリング・ストーンズのビル・ワイマンとチャーリー・ワッツ、ローリング・ストーンズのサポート・メンバーだったイアン・スチュアートを中心に、一部の曲には元プラスティック・オノ・バンドのクラウス・フォアマンや、元ビートルズのリンゴ・スターも参加。


Howlin' Wolf - Moanin' in the Moonlight FULL ALBUM [1959]

2016/06/10

ブルースの歴史12 シカゴブルース1– マディ・ウォーターズ Muddy Waters

800px-Muddy_Watersマディ・ウォーターズ(Muddy Waters, 1913年4月4日 - 1983年4月30日)は、米国のブルース・シンガー、ギタリスト。本名は、マッキンリー・モーガンフィールド(McKinley Morganfield)。シカゴにおいてエレキ・ギターを使ったバンド・スタイルのブルースを展開し、シカゴ・ブルースの形成に大きな足跡を残したことから、「シカゴ・ブルースの父」と称される。生涯に6度グラミー賞を受賞し[1]、没後の1987年にはロックの殿堂入りを果たした[2]。
その豊富で深淵な声、豪快なボトルネック・ギター、カリスマ的キャラクターで、ブルースの第一人者のひとりとなった。ロック界においても、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ロリー・ギャラガー、ポール・ロジャース、ザ・バンドなど、彼から影響を受けたミュージシャンは多く、その影響力は計り知れない。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第53位[3]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第17位。
2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第49位。
 
来歴
クラークス郊外ストーヴァルのプランテーションにて幼少期を過ごす。泥んこになって遊ぶのが大好きだったことから、マディ・ウォーターズ(泥水)とのニックネームで呼ばれるようになった。7歳でハーモニカを始め、のちにギターに転向。当時の彼のアイドルは、サン・ハウス、ロバート・ジョンソンらであった。 なお、1915年ミシシッピ州ローリング・フォーク生まれとされてきたが、近年の研究[4]により1913年にミシシッピ州のアイザッキーナ・カウンティとするのが定説となっている。
1941年8月、国会図書館のフィールド・レコーディングのためにミシシッピ州を訪れたアラン・ローマックスが、ストーヴァルでウォーターズをレコーディングする。これが彼の初レコーディングとなった。1943年、イリノイ州シカゴに移住。1946年にはコロンビアでレコーディングを行っている。
1947年、サニーランド・スリムに誘われ、アリストクラット・レーベル(後のチェス・レコード)のレコーディングに参加。これは、スリムのバッキングをするためであったが、マディも

"Gypsy Woman"、

"Little Anna Mae"の2曲をレコーディングした。これが彼のレーベルからのデビュー盤となった。このときの編成はスリムのピアノ、ビッグ・クロフォードのベースのみをバックにつけたもので、まだバンド・スタイルではなかった。
バンド・スタイルでレコーディングするようになったのは、1950年のパークウェイのセッションから。リロイ・フォスターとリトル・ウォルターがヴォーカルを取るセッションではあったが、初めてウォルターがハーモニカをプレイするなど、実質的にマディ・ウォーターズ・バンドの始動とも言える内容であった。パークウェイに負けじと、続いてチェスもマディをバンド・スタイルでレコーディングするようになった。1953年にはオーティス・スパン、1954年にはウィリー・ディクスンがレコーディングに加わるようになり、マディのバンドの形が完成する。同年、


"I'm Your Hoochie Coochie Man"、

"I Just Want To Make Love To You"など、彼の代表曲となる曲がレコーディングされた。1955年にも

"Mannish Boy"などがヒットする。1958年には、初のイギリス・ツアーを体験する。
1963年、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のために渡欧。翌年、当時のフォーク・ブームに乗る形でアルバム『Folk Singer』をリリースした。同作には、ギターにバディ・ガイが参加している。この年もフェスティバルのために再度渡欧した。
1968年、異色作『Electric Mud』をリリース。これは、ロック・ファンにアピールするために、大胆にサイケデリックなアレンジを施した作品であった。ロックへの傾向は続く1975年の『Woodstock Album』でさらに顕著となる。ここではザ・バンドのリヴォン・ヘルム、ガース・ハドスン、ポール・バターフィールドなどロックミュージシャンが参加している。翌1976年には、ザ・バンドの解散コンサート、「ラスト・ワルツ」に出演。ザ・バンドをバックに

"Mannish Boy"を歌う様子は、同名のドキュメント映画に記録されている。
1977年、ジョニー・ウィンターと組んでブルー・スカイよりアルバム『Hard Again』をリリース。また、同年リリースされたウィンターのアルバム『Nothin' But the Blues』のレコーディングに参加。以後、ウィンターのサポートを得て1981年までに計4枚のアルバムをリリースした。



1980年5月、唯一の来日公演を行う。
1983年、イリノイ州ウェストモントにて68歳で死去。シカゴ近郊のオールシップにあるレストヴェール墓地に埋葬された。
 
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1. I Just Want To Make Love To You 2:49 (Willie Dixon)


2. Long Distance Call 2:38 (McKinley Morganfield)


3. Louisiana Blues 2:49 (McKinley Morganfield)


4. Honey Bee 3:20 (McKinley Morganfield)


5. Rollin' Stone (McKinley Morganfield)

6. I'm Ready 3:01 (Willie Dixon)

7. Hoochie Coochie 2:49 (Willie Dixon)

8. She Moves Me 2:54 (McKinley Morganfield)

9. I Want You To Love Me 3:01 (McKinley Morganfield)

10. Standing Around Crying 3:19 (McKinley Morganfield)

11. Still A Fool 3:14 (McKinley Morganfield)

12. I Can't Be Satisfied 2:41 (McKinley Morganfield)















ブルースの歴史11 シカゴブルース

シカゴ・ブルース (Chicago blues)とは、米国イリノイ州シカゴにおいて1950年頃に登場したブルースのスタイルのひとつ。主にアコースティック・ギターの弾き語りで演奏されたアメリカ深南部のデルタ・ブルースにエレキ・ギターを持ち込み、バンド・スタイルに発展させたものであった。代表的なアーティストにはマディ・ウォーターズが挙げられる。彼は、シカゴ・ブルース創世記にそのスタイルを作り上げた一人である。
略歴
シカゴ・ブルースの誕生の背景には、第2次世界大戦時に頂点を迎えたアフリカ系アメリカ人(黒人)の大移動がある。その流れを受けて1930年代から50年代にかけて、南部の州からシカゴへ多くのブルース・ミュージシャンが移住した。彼らが、シカゴにおいて南部のブルースに新たな息吹を吹き込んだのである。彼らはライヴハウスを始め、マックスウェル・ストリート(路上でフリー・マーケットとともにライヴ演奏が展開された)などでも演奏を展開した。路上での演奏はより大きな音を出すことを必要とし、これもシカゴ・ブルースがエレキ化、バンド化へ進んだ要因と言われている。
初期のシカゴ・ブルースにおいては、主たるリード楽器はハーモニカであった。ギターはデルタ・ブルース同様、主に伴奏楽器として使用された。しかし50年代後半、マディよりも若い世代のオーティス・ラッシュ、バディ・ガイ、マジック・サムらの登場により、シカゴ・ブルースは新たな局面を迎える。彼らは、ギターをリード楽器として前面に押し出し、それまでのブルースの概念を打ち破った。彼らのサウンドは彼らがシカゴのウェスト・サイドで主にプレイしていたことから「ウェスト・サイド・サウンド」となどと呼ばれた。以後、ギターはブルースの主たるリード楽器として、その重要性を高めていく。
1960年代に入ると、イギリスにおけるブルース・ブームなどと共に、ヨーロッパを始めより広範囲で注目されるようになり、シカゴのミュージシャンの活動の場も広がっていく。その流れの中で、シカゴ・ブルースも音の幅が広がっていった。ポール・バターフィールド・ブルース・バンドやマイク・ブルームフィールドを始め、白人のプレイヤーも増えていった。エレクトリック・スタイルのブルース・バンドも増えてきたが、1965年くらいからシカゴのブルース・シーンは下火になって行く。
今日では、世代交代ともにシカゴのブルース・ミュージシャンたちも、かつてのように南部出身の層は少数派となり、都市部で生まれ育った人々が多くなっている。これに伴い、シカゴ・ブルースも多様化している。
シカゴでは、バディ・ガイズ・レジェンズ、ローザス、アーティス・ラウンジ、キングストン・マインズといったブルース・クラブで連日、ブルースのライヴが展開されている。また例年6月には、米国最大のブルース・フェスティバルであるシカゴ・ブルース・フェスティバルが開催されており、ブルースの街としてのシカゴの存在を世界にアピールしている。
レコード会社
シカゴのブルース・シーンはレコード業界の歴史でもあり、1950年代の中頃迄にはサウス・サイドにチーフ・レコード、コブラ・レコード、チェス・レコードがたちあがり、シカゴに事務所を移転してきたデルマーク・レコード、ヴィージェイ・レコード等が揃い一世を風靡した。1960年代末ごろにはほとんどのレーベルが大手のレーベルに権利を譲渡するか閉鎖、移転などをしている。ただ1970年代初頭にデルマークにいたブルース・イグロアがたちあげたアリゲーター・レコードがブルース・ミュージシャンの支えとなり、アリゲーターは現在までブルース音楽のトップのレコード・レーベルとして存続している。
代表的なアーティスト
シンガー
マディ・ウォーターズ
ハウリン・ウルフ
ココ・テイラー

    ギタリスト
      ロバート・ロックウッド・ジュニア
      ジョン・ブリム
      アール・フッカー
      ジミー・ロジャーズ
      ロバート・ナイトホーク
      オーティス・ラッシュ
      バディ・ガイ
      マジック・サム
      ハウンド・ドッグ・テイラー
      ルリー・ベル
      カルロス・ジョンソン
      サン・シールズ
      ロニー・ブルックス
      フェントン・ロビンソン
      ジョン・プライマー

        ハーピスト (ハーモニカ)
          サニー・ボーイ・ウィリアムソンII
          リトル・ウォルター
          ジェイムズ・コットン
          ジュニア・ウェルズ
          スヌーキー・プライアー
          ビリー・ブランチ
          シュガー・ブルー
          ポール・バターフィールド

            ピアニスト
              パイントップ・パーキンズ
              サニーランド・スリム

              2016/06/09

              ブルースの歴史09 デルタブルース番外2 – ロニー・ジョンソン Lonnie Johnson

              220px-LonnieJohnsonByRussellLee1941CropAlonzo "Lonnie" Johnson (February 8, 1899[1][2] – June 16, 1970) was an American blues and jazz singer, guitarist, violinist and songwriter. He was a pioneer of jazz guitar and jazz violin and is recognized as the first to play an electrically amplified violin.[3][4]



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              The Very Best of Lonnie Johnson


              1. I Am So Glad
              2. What A Woman

              3. Tomorrow Night

              4. Friendless Blues

              5. I Want My Baby

              6. What A Real Woman

              7. Fallin’ Rain Blues

              8. Feeling Low Down

              9. Drunk Again

              10. Jelly Roll Baker

              11. Working Man’s Blues

              12. Chicago Blues

              13. Feel So Lonesome

              14. Tell Me Little Woman

              15. Backwater Blues

              16. Careless Love

              17. She’s So Sweet

              18. Trouble Ain’t Nothin’ But The Blues

              19. Little Rockin’ Chair

              20. Nothin’ Clickin’ Chicken

              21. Nothing But Trouble

              22. Me And My Crazy Self

              23. Seven Long Days

              24. Just Another Day
              25. You Can’t Buy Love






















              2016/06/07

              ブルースの歴史08 デルタブルース番外– ライトニン・ホプキンス Lightnin' Hopkins

              hopkins1ライトニン・ホプキンス(Lightnin' Hopkins、1912年3月15日 - 1982年1月30日)はアメリカのブルース・ミュージシャン。本名はサム・ジョン・ホプキンス(Sam John Hopkins)。

              「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第71位、2011年の改訂版では削除された。

              1912年テキサス州センターヴィル生まれ。少年時代の1922年に、ブラインド・レモン・ジェファーソンに出会いギターを教わる。1927年にはいとこであるテキサス・アレクサンダーと共に テキサスにあるレインボー・シアターで演奏する。 レコードデビュー当時、よくコンビで演奏をしていたピアニストのサンダー・スミスのサンダー(雷)にちなんで自らをライトニン(稲妻)と名乗るようになる。
              黒いサングラスに葉巻をくわえたスタイルで演奏し、アメリカン・フォーク・ブルース・フェステイバルに出演したり、マンス・リプスカムと共演したりした。

              初録音は1946年で、1959年に白人により再発見され、ようやく世界にその「ライトニン節」を轟かせる事になる。 アラジン・レコードから初のシングル

              「Katie Mae Blues」をリリースし、ヒットを記録。 その後もR&Bチャートにランク・インするような曲を次々にリリースし、50年頃は

              「ハロー・セントラル」がビルボードにチャートインするほど大変な人気ぶりで、カントリー・ブルース界でも極めて稀な存在となり、戦争を題材にした歌などもリリースする。

              1930年代は放浪していることが多くヒューストンに移り住んだ後、ジューク・ジョイントで演奏やストリートでブルースを歌っていた。

              ケンカが原因で、刑務所送りになったという辛い過去がある。 従事した仕事は架橋工事で、宿舎では寝る時も足を鎖で繋がれ、翌朝の食事の時に外されるなど、過酷な労働・生活が続いた。 彼の音楽には人生観がにじみ出て、ある種の安らぎ、人生の哀切や達観、希望が満ち溢れた音に、多くの人々が魅了されていった。

              ライブではアメリカ各地の大学・ヨーロッパ等、どこも超満員だった。 語彙が豊富で、頭の回転の早い彼による心の奥底を探るような歌詞は、彼自身の気分によって抱腹絶倒の内容になることも、痛ましく荒涼とした内容になることもあった。彼はその場の雰囲気に合わせて即興で歌詞を作ってしまうことでも有名で、そのためライヴ・レコーディングでは、しばしば予想を超える内容になる等、エピソードには事欠かない。

              1960年代の後半、ライトニンのホームタウンであるテキサス州ヒューストンで撮られたドキュメンタリー・フィルム『ライトニン・ホプキンスのブルース人生』には、飾らない素顔や生活ぶりが記録されている。

              生涯に百枚以上のアルバムをリリースしていると言われ、現在もブルース・ファンに人気の高いギタリストである。ブルースの歴史を研究する上で、欠かす事の出来ない存在である。

              代表作は、『アラジン・レコーディングス』(1946-1948) 『ライトニン・ホプキンス』(1959) 『モジョ・ハンド』(1960) 『ライトニン・ストライクス』(1962) 『テキサス・ブルースマン』(1962)など多数。

              1978年に最初で最後の日本公演を行っている。 1982年癌により死亡。