2016/06/09

ブルースの歴史09 デルタブルース番外2 – ロニー・ジョンソン Lonnie Johnson

220px-LonnieJohnsonByRussellLee1941CropAlonzo "Lonnie" Johnson (February 8, 1899[1][2] – June 16, 1970) was an American blues and jazz singer, guitarist, violinist and songwriter. He was a pioneer of jazz guitar and jazz violin and is recognized as the first to play an electrically amplified violin.[3][4]



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The Very Best of Lonnie Johnson


1. I Am So Glad
2. What A Woman

3. Tomorrow Night

4. Friendless Blues

5. I Want My Baby

6. What A Real Woman

7. Fallin’ Rain Blues

8. Feeling Low Down

9. Drunk Again

10. Jelly Roll Baker

11. Working Man’s Blues

12. Chicago Blues

13. Feel So Lonesome

14. Tell Me Little Woman

15. Backwater Blues

16. Careless Love

17. She’s So Sweet

18. Trouble Ain’t Nothin’ But The Blues

19. Little Rockin’ Chair

20. Nothin’ Clickin’ Chicken

21. Nothing But Trouble

22. Me And My Crazy Self

23. Seven Long Days

24. Just Another Day
25. You Can’t Buy Love






















2016/06/07

ブルースの歴史08 デルタブルース番外– ライトニン・ホプキンス Lightnin' Hopkins

hopkins1ライトニン・ホプキンス(Lightnin' Hopkins、1912年3月15日 - 1982年1月30日)はアメリカのブルース・ミュージシャン。本名はサム・ジョン・ホプキンス(Sam John Hopkins)。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第71位、2011年の改訂版では削除された。

1912年テキサス州センターヴィル生まれ。少年時代の1922年に、ブラインド・レモン・ジェファーソンに出会いギターを教わる。1927年にはいとこであるテキサス・アレクサンダーと共に テキサスにあるレインボー・シアターで演奏する。 レコードデビュー当時、よくコンビで演奏をしていたピアニストのサンダー・スミスのサンダー(雷)にちなんで自らをライトニン(稲妻)と名乗るようになる。
黒いサングラスに葉巻をくわえたスタイルで演奏し、アメリカン・フォーク・ブルース・フェステイバルに出演したり、マンス・リプスカムと共演したりした。

初録音は1946年で、1959年に白人により再発見され、ようやく世界にその「ライトニン節」を轟かせる事になる。 アラジン・レコードから初のシングル

「Katie Mae Blues」をリリースし、ヒットを記録。 その後もR&Bチャートにランク・インするような曲を次々にリリースし、50年頃は

「ハロー・セントラル」がビルボードにチャートインするほど大変な人気ぶりで、カントリー・ブルース界でも極めて稀な存在となり、戦争を題材にした歌などもリリースする。

1930年代は放浪していることが多くヒューストンに移り住んだ後、ジューク・ジョイントで演奏やストリートでブルースを歌っていた。

ケンカが原因で、刑務所送りになったという辛い過去がある。 従事した仕事は架橋工事で、宿舎では寝る時も足を鎖で繋がれ、翌朝の食事の時に外されるなど、過酷な労働・生活が続いた。 彼の音楽には人生観がにじみ出て、ある種の安らぎ、人生の哀切や達観、希望が満ち溢れた音に、多くの人々が魅了されていった。

ライブではアメリカ各地の大学・ヨーロッパ等、どこも超満員だった。 語彙が豊富で、頭の回転の早い彼による心の奥底を探るような歌詞は、彼自身の気分によって抱腹絶倒の内容になることも、痛ましく荒涼とした内容になることもあった。彼はその場の雰囲気に合わせて即興で歌詞を作ってしまうことでも有名で、そのためライヴ・レコーディングでは、しばしば予想を超える内容になる等、エピソードには事欠かない。

1960年代の後半、ライトニンのホームタウンであるテキサス州ヒューストンで撮られたドキュメンタリー・フィルム『ライトニン・ホプキンスのブルース人生』には、飾らない素顔や生活ぶりが記録されている。

生涯に百枚以上のアルバムをリリースしていると言われ、現在もブルース・ファンに人気の高いギタリストである。ブルースの歴史を研究する上で、欠かす事の出来ない存在である。

代表作は、『アラジン・レコーディングス』(1946-1948) 『ライトニン・ホプキンス』(1959) 『モジョ・ハンド』(1960) 『ライトニン・ストライクス』(1962) 『テキサス・ブルースマン』(1962)など多数。

1978年に最初で最後の日本公演を行っている。 1982年癌により死亡。

2016/06/06

ブルースの歴史07 デルタブルース06–ブッカ・ホワイト Bukka White

ブッカ・ホワイト (Bukka White) として知られる、ブッカ・T・ワシントン・ホワイト(Booker T. Washington White、1909年11月12日 -1977年2月26日)[1]は、アメリカ合衆国のデルタ・ブルースのギタリスト、歌手。「ブッカ (Bukka)」という通称は、ホワイトの本名 (Booker) を音写したもので、1937年にVocalionレーベルから出た2枚目のレコードで、初めてこの表記が用いられた。

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Complete Bukka White

1. Pinebluff, Arkansas

 

 

 

 

2. Shake 'Em On Down

3. Black Train BLues

4. Strange Place Blues

5. When Can I Change My Clothes?

6. Sleepy Man Blues

7. Parchman Farm Blues

8. Good Gin Blues

9. High Fever Blues

10. District Attorney Blues

11. Fixin' To Die Blues

12. Aberdeen Mississippi Blues

13. Bukka's Jitterbug Swing

14. Special Streamline

Booker White - Poor Boy Long Way from Home

2016/06/05

ブルースの歴史06 デルタブルース05 - サン・ハウス Son House

ウィキではサンハウスが抜けている。この人は後に再発掘され歴史に埋もれることはなかった。

 

41A5WBVPRXL伝説のデルタ・ブルース・セッション1930

SONHOUSE サン・ハウス&チャーリー・パットン

1. All Night Long Blues(ルイーズ・ジョンスン)

2. Long Ways From Home(ルイーズ・ジョンスン)

3. My Black Mama(Part1)(サン・ハウス)

4. My Black Mama(Part2)(サン・ハウス)

5. Preachin’ The Blues(Part1)(サン・ハウス)

6. Preachin’ The Blues(Part2)(サン・ハウス)

7. M&O Blues(ウィリー・ブラウン)

8. Future Blues(ウィリー・ブラウン)

9. On The Wall(ルイーズ・ジョンスン)

10. By The Moon And Stars(ルイーズ・ジョンスン)

11. Dry Spell Blues(Part1)(サン・ハウス)

12. Dry Spell Blues(Part2)(サン・ハウス)

13. Dry Well Blues(チャーリー・パットン)

14. Some Summer Day(Part1)(チャーリー・パットン)

15. Moon Going Down(チャーリー・パットン)

16. Bird Nest Bound(チャーリー・パットン)

2016/06/04

ブルースの歴史05 デルタブルース04 - アーサー・"ブラインド"・ブレイク Arthur "Blind" Blake

41ma-kJBCnLアーサー・"ブラインド"・ブレイク(Arthur "Blind" Blake, 1896年 - 1934年12月1日)は、主に1920年代のアメリカで活躍したブルース及びラグタイムギタリスト。"The King of Ragtime Guitar"と称される。
1926年 - 1932年までにおよそ80トラックをパラマウントレコードにおいて残している。 同時代の他にギタリストと比べ、もっとも洗練された完成度の高い技法を用い、センスのよいギターを弾いている。 その技法はまるでラグタイムピアノのようでもある。
最初の録音は1926年7月、シカゴにてヴォードヴィル・シンガーのLeona B. Wilsonのバックで弾いている。 翌月の8月には自分名義での初録音を行った

"Early Morning Blues":

"West Coast Blues"(Pm12387)がある。 最後の録音は1932年6月、ウィスコンシン州グラフトンでの録音で

"Champagne Charlie Is My Name" (L-1475):

"Depression's Gone From Me Blues"(L-1476)の2曲が知られている。また現在では音源の行方がわからない幻のレコードも2曲のカップリングで発売されていたことが明らかになっている(

"Miss Emma Liza" (L-1272-1 ): 
"Dissatisfied Blues" (L-1267-1,2))。その後は大恐慌に伴う同年のパラマウントレコードの録音停止(1935年に倒産し、1948年に復興)に伴い、彼の足跡は途絶えた。
現存する写真が一枚しかないなど彼の生涯に関してはこれまで不明な部分が多く、本名はアーサー・フェルプスという記述もあった。パラマウントの1927年発行されたプロモーショナルブックには「太陽の光が燦々と降り注ぐFloridaはJacksonvilleにて生まれた」とある。 またここではブレイクがブラインドの呼び名通り盲目であったことも記述されていた。
しかし、2011年になって死亡診断書が発見され、生年・出身地および家族構成、晩年に妻と共にミルウォーキーへ移住したが肺結核のために死去したことなどが判明し、墓地も発見された[1]。
プレイスタイル
ピアノサウンドのギターと称されたとおり、複雑に低音弦を絡ませた和音奏法を行う。独特のシンコペイトされたリズム感でベースラインを構築し 厚みのあるサウンドを表現している。ブレイクは同時代のブルースギタリストからの影響をまったく受けずに独自性を伴った点で特筆に価する。 ピッキングは爪で弾く繊細なサウンドとは異なり、指の腹ではじくようなスタイルで力強い。スタンブリングベースとも言われる手法は未だブレイクの域に達するものはいない。ギターサウンドは太く、ガット弦が使用されていた可能性もある。スタンブリング代表曲は"west coast blues"など。

2016/06/02

ブルースの歴史04 デルタブルース03 - ハンボーン・ウィリー・ニューバーン Hambone Willie Newbern

ハンボーン・ウィリー・ニューバーン Hambone Willie Newbern

もちろん古い話なのでよくわかってない人も居るのだ。この人は残した曲によって記憶されている。1988年に生まれ1947年頃監獄でなくなったとされている。
 ブルースの定石以前なので12小節を外した楽曲もある。
Hambone Willie Newbern (1899–1947)was an American guitar-playing country blues musician. His home community was in the Brownsville, Tennessee area along Tennessee State Route 19.[3] He was reported to have played with Yank Rachell and Sleepy John Estes (from whom most of our knowledge of Hambone was gained) in the 1920s and 1930s. He recorded one of the earliest known versions of the blues standard "Rollin' and Tumblin'" in 1929. He only recorded six tracks in total, which also included, "She Could Toodle-Oo" and "Hambone Willie's Dreamy-Eyed Woman's Blues."
Newbern was a hot-tempered man who eventually was beaten to death in a prison brawl, around 1947.
MI0001516427The Greatest Songsters: Complete Works (1927-1929)
Hambone Willie Newbern(アーティスト)
Document
[収録曲]
  1. James Alley Blues
  2. Never Let the Same Bee Sting You Twice
  3. I'm Not Jealous
  4. Mystery of the Dunbar's Child
  5. Sinking of the Titanic
  6. Frankie
  7. Nobody's Dirty Business
  8. Ain't No Tellin'
  9. Louis Collins
  10. Avalon Blues
  11. Big Leg Blues [#]
  12. Stack O' Lee Blues
  13. Candy Man Blues
  14. Got the Blues (Can't Be Satisfied)
  15. Blessed Be the Name
  16. Praying on the Old Camp Ground
  17. Blue Harvest Blues
  18. Spike Driver Blues
  19. She Could Toodle-Oo
  20. Nobody Knows (What the Good Deacon Does)
  21. Shelby County Workhouse Blues
  22. Way Down in Arkansas
  23. Hambone Willie's Dreamy-Eyed Woman's Blues
  24. Roll and Tumble Blues

2016/06/01

ブルースの歴史03 デルタブルース02 - ビッグ・ビル・ブルーンジー Big Bill Broonzy

ビッグ・ビル・ブルーンジー(Big Bill Broonzy , 1893年または1898年6月26日 – 1958年8月15日)は、生涯で300曲近くのブルースを作曲したアメリカ合衆国のブルース・シンガー、ギタリスト、作曲家。ミシシッピー州出身。
経歴
「ビッグ・ビル」は1893年または1898年6月26日(正確な年は不明)、ミシシッピ州スコット郡にウィリアム・リー・コンリー・ブルーンジー(William Lee Conley Broonzy)として生まれた。ブルーンジー自身は1893年生まれと主張したが、ブルーンジーの双子の姉妹のラニー・ブルーンジーは1898年生まれであることを証明した文書を所持していると主張した[1]。この時期、黒人男性が職を得たり軍に参加したりするのに実際の年齢に上乗せすることは普通であり、ブルーンジーのケースもしばしば起こりえることかもしれない。いずれにしても、ブルーンジーは1924年にミシシッピ州を離れてシカゴに到着し、そこで彼にギターを教えた(彼は以前はフィドル奏者であった)パパ・チャーリー・ジャクソン(w:Papa Charlie Jackson)と出会った。
ブルーンジーは最初にソロのシンガーとして1929年に録音し、そのスタイルで録音を続けた。1936年彼は、トラップス(ドラムス)とアコースティック・ベースと、ひとつ以上のメロディ楽器(ホーンもしくはハーモニカ)で構成された小さなグループを使った、最初のブルース歌手の一人となった。これで録音された盤は、通常は

「ビッグ・ビルと彼のシカゴ・ファイブ(Big Bill and his Chicago Five)」名義でリリースされた。当時、ブルーンジーはARCレコーズ系列のより安いレーベル(メロトーン、パーフェクト・レコーズなど)で録音していた。1939年、ARCがCBSに吸収されて、ブルーンジーはヴォカリオン(後のオーケー)に現れ、1945年以降はコロンビア・レコーズに移った。彼の最も知られた曲のひとつ、

「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」はこの頃に書かれた。彼の人生の大半では、寝台車のポーター、コック、鋳物工、守衛をして収入を稼いでいた。
この時期、ブルーンジーは通常サウスサイドのクラブで演奏し、また1930年代の間はメンフィス・ミニー(w:Memphis Minnie)と共にツアーをした。第2期のアメリカ音楽家連盟(w:American Federation of Musicians)が1948年に解散すると、ブルーンジーはマーキュリー・レコーズのレーベルとの契約を結ぶ機会に恵まれ、そこで彼は1951年にレコードを制作した。その後、ブルーンジーはフォーク・ブルースのルーツに戻り、1956年初めまでヨーロッパ中を広範囲にわたってツアーし、そして録音した。さらに英国で紹介されたことが、彼の知名度を大きくアップさせた。ブルーンジーの演奏を見た英国の聴衆は、彼の演奏技術に驚嘆の声をあげたと伝えられている。彼はシカゴ・ブルースのスタイルのパイオニアであり、1942年の初めにはエレクトリック楽器を導入していたにもかかわらず、彼の新しい白人の観衆たちは、彼にアコースティック・ギター一本だけで初期の曲を演奏するのを聞きたがり、それらの曲がより「正真正銘」であると考えられた。ブルーンジーは1956年にシカゴに戻り、演奏を続けた。スタッズ・ターケル、ウィン・ストラックとブルーンジーは「I Come for to Sing」と呼ばれるフォーク音楽の批評のツアーをした。ブルーンジーはシカゴのオールドタウンスクール・オブ・フォークミュージックを設立した教員の一人であった。ターケルは彼をこのグループの重要人物と評した[2]。ブルーンジーは開校の初日の夜に現れて、最初のクラスに彼の曲

「The Glory of Love」をどのように歌うのかを教えた[3] 。
彼は1958年に咽頭癌で亡くなり、イリノイ州ブルーアイランドのリンカーン墓地に埋葬された[4]。彼のフォーク・ブルース時代の間、彼はピート・シーガー(w:Pete Seeger)、ソニー・テリー(w:Sonny Terry)、ブラウニー・マギー(w:Brownie McGhee)、レッドベリーらと録音した。彼の初期のARC/CBSでの録音物に相当する曲は、CBSソニーの名曲集で再リリースされている。同じく、他の初期の録音は、後期のヨーロッパとシカゴでの1950年代の録音物と同様に、ブルース再発レーベルにまとめられている。
ブルーンジーは彼の1950年代初期の同時代の他の人のように華々しいエレクトリックのギタリストでは決してなかったので、彼はその時代の他の人ほどには有名ではなく、また1960年代の英国の「ブルース・リバイバル」の時期にも広範囲にわたってカバーされなかった。しかしながら、デレク・アンド・ザ・ドミノスが彼の曲「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」を、アルバム「いとしのレイラ(Layla and Other Assorted Love Songs)」で取り上げたことで多少の人気を得た。彼はアコースティックギター奏者として称賛されていて、マディ・ウォーターズ、メンフィス・スリム(w:Memphis Slim)、レイ・デイヴィスらの主なインスピレーションの源であった。
2007年9月のQ-Magazineでは、ローリング・ストーンズのロン・ウッドが、ギター音楽の中で彼のお気に入りがブルーンジーの曲であると言及された。その曲は

「ギター・シャッフル」で、「それは俺が演奏を学んだ最初の曲のひとつだけど、今でもそれを正しく演奏できないんだ」と語った。