2014/08/13

「評伝 宮崎滔天」 渡辺京二


1001-01中華帝国がなければ、今の日本はなかった。当たり前のことだ。

 現在の中国の成立についても、日本がなければ全く違ったものになっていたであろうことは火を見るよりも明らかだ。

121_994_4386_up_S5HEXNDR そんな深い関係の中、現在の中国を作るために命を賭けて激動の時代を駆け抜けた男たちがいた。

 彼らは何を考えたのか、何をなしたのか。

 そんなことにも思いを馳せると、今の関係がおかしいのではないかと誰もが思うに違いない。立て直すなら、今しかない。


Miyazaki Toten.jpg宮崎 滔天(みやざき とうてん、明治3年12月3日1871年1月23日) - 大正11年(1922年12月6日)は、日本孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲師である。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。

略歴

肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に郷士宮崎政賢(宮崎長兵衛)の八男で末子として生まれる。兄に社会運動家の宮崎八郎宮崎民蔵宮崎彌蔵がいた。父には山東家伝二天一流を兄たちとともに習っている。熊本で徳富蘇峰が主宰していた私塾「大江義塾」でキリスト教自由主義思想を学び、閉鎖まで義塾で就学した。その後上京し、東京専門学校(後の早稲田大学)に入ったが、大江義塾との学風の違いからすぐに中退した。その後自由民権運動を識り、またキリスト教に帰依、その後アジア革命(アジア主義運動)に関心を深めた。

明治24年(1891年)、初めて上海に渡航した。おりしも東学党の乱があり、日本と清国との交渉はついに切迫し、岩本千綱とともに暹羅植民開拓事業に着手したが、志を得ることなく帰国し、外務省の命によって中国秘密結社の実情観察におもむき、中国革命党員との往復があった。

明治30年(1897年)に孫文(孫逸仙)と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助、池袋で亡命してきた孫文や蒋介石を援助した。明治31年(1898年)、戊戌の政変においては香港に逃れた康有為をともなって帰朝し、朝野の間に斡旋し、同32年(1899年)の米比戦争においては参画するところがあった。

哥老会・三合会・興中会の3派の大同団結がなり、明治33年1900年(明治33年)恵州義軍が革命の反旗をひるがえすと、新嘉坡(現在のシンガポール)にいた康有為を動かして孫文と提携させようと謀った。しかし刺客と疑われて追放命令を受け、香港に向かったもののそこでもまた追放令を受け、船中において孫逸仙と密議をこらしたが、日本国内における計画はことごとく破れ、資金も逼迫し、政治的画策は絵に描いた餅になってしまった。この時期に半生記『三十三年の夢』を著述し、明治35年(1902年)に『狂人譚』と共に、國光書房より出版した。

中国同盟会、前列右端が孫文、後列中央が宮崎滔天(1890年)

一旦はアジア主義運動に挫折し、自分を見つめ直す意図で桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となる(なお東京・浅草の日本浪曲協会大広間には孫文筆になる「桃中軒雲右衛門君へ」という額が飾られている)。しかし革命の志を捨てたわけではなく、明治38年(1905年)には孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成した。なお滔天は辛亥革命の孫文のみならず朝鮮開化党の志士・金玉均の亡命も支援しているが、その金玉均が上海で暗殺された後に、遺髪と衣服の一部を持ち込み日本人有志で浅草本願寺で葬儀を営むという義理人情に溢れた人物であった。

明治40年(1907年)頃より『革命評論』を編集発行。明治45年(1912年)1月に、口述筆記『支那革命軍談 附.革命事情』(高瀬魁介編、明治出版社)を出版し、辛亥革命の宣伝につとめた。亡くなる前年まで大陸本土に度々渡航した。

大正11年(1922年)12月6日、腎臓病による尿毒合併症により東京で病没した。享年51。

上海でも孫文ら主催で追悼会が催された。東京文京区の白山神社境内には孫文が亡命中に滔天とともに座った石段が孫文を顕彰する碑とともに保存されている。日本人として、山田良政山田純三郎兄弟とともに辛亥革命支援者として名を残す。

中国の南京中国近代史遺址博物館の中庭に孫文と並んで銅像が建つ。

 

家族について

妻の槌子は貧乏に耐えて滔天の活動を支え続けた。長男の龍介は、滔天最晩年の1921年大正10年)に、白蓮事件で世を騒がせた。皮肉なことに滔天が浪曲師として博多講演をしていた時に、ご祝儀をくれたのが、白蓮の元夫の伊藤伝右衛門であった。子供達に対して放任主義であった滔天は事件まで何も知らされておらず、新聞に掲載された絶縁状を見て龍介に「いいのか、お前、こんなことをして……」と言って驚いたという。白蓮に対しては事件前から同情を寄せており、家族として暖かく迎え入れている。

他に子供は次男・震作(1894年 - 1936年)、長女・節(1897年 - 1952年)がある。また33歳の時に長崎で同棲した愛人に女児を産ませている。龍介の長男・香織は、学徒出陣し、1945年(昭和20年)に戦死している。他に娘・蕗苳(華道家)がおり、子孫は健在である。

1929年昭和4年)、南京で行われた孫文の奉安大典に、槌・龍介・震作の滔天遺族が国賓として招待された。1931年(昭和6年)にも龍介・燁子夫妻が国賓として招待されている。戦後の1956年(昭和31年)の孫文誕生九十年の祝典に龍介夫妻が招待され、毛沢東主席・周恩来首相と共に臨席した。その後も宮崎家と中国の交流は続き、孫文の友人「井戸を掘った人」として5年に一度、国賓として中国に招待されている(宮崎蕗苳(聞き書き)『白蓮~娘が語る母燁子~』より)。

 

著作(近年刊行)

  1. 三十三年之夢・幽囚録ほか
  2. 東京より・亡友録・革命問答ほか
  3. 独酌放言・狂人譚・明治国姓翁・炬燵の中より・出鱈目日記ほか
  4. 桃中軒の近状・巡業雑録・支那留学生に就て・米国の今昔ほか
  5. 支那だより・支那革命のぞ記・書簡集ほか
三十三年之夢、侠客と江戸ッ児と浪花節、浪人界の快男児 宮崎滔天君夢物語、朝鮮のぞ記。
  • 『近代日本の狂と夢 滔天文選』 書肆心水、2006年
明治国姓爺、狂人譚
  • 『宮崎滔天 アジア革命奇譚集』 書肆心水  同年 渡辺京二解説
独酌放言、乾坤鎔廬日抄、銷夏漫録ほか4篇
萱野長知北一輝の著作を併収)、書肆心水、2008年
金玉均先生を懐う、支那革命と列国、革命問答、支那留学生に就いて、孫逸仙は一代の大人物、黄興将軍と刺客高君、南北妥協問題に就いて、シャムにおける支那人。

伝記

参考文献

  • 横田順彌 『明治おもしろ博覧会』、西日本新聞社、1998年、155-158頁
  • 鹿野政直 『近代国家を構想した思想家たち』、岩波書店、2005年、112-117頁



凡作と言うものを知らない渡辺氏だがこの筆の冴え方は余程の思い入れがあったんだと思う。本邦の文庫所有の出版社なら義務があるだろうと思う。

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