玉石混交、著作のほとんどは翻訳されている。
いったい誰が読んだ?
学生の頃でさえ、ぼくの身近には若干一名いただけだ。まぁ、曲がりなりにも法学部だったので、こう言うちゃらちゃらした本は読まないというのがポーズだった・・・などとは到底思えない。
ぼくが学生の頃村上春樹が、風、ピンボールで各種賞取りをしたので読んでみたけど最初はピンとこなかった。でも、何か引っかかって読み返しているうちにKVJとRBの使い方が腑に落ちた。
そっか・・・いい感じやって思った。
同じような事を感じたのが、池澤夏樹の登場したときだった。「夏の朝の成層圏」と「スティル・ライフ」は強烈だった。ひょっとしたら村上の三部作より読み返した回数は多いのではないかと思う。文体は似ているようで似ていない。世界観は全く違う。でも、基底部で共鳴しているのを感じるのだ。
村上に関してはワンダーランドでもういいと思った。充分だと思った。どう言ったらいいのかわかんないけど、大江健三郎を読み上がって「フットボール」で、イーグルスも「呪われた夜」で、ザ・バンドも「南十字星」で、もうこれ以上飲むと明日が堪える、もういいお腹いっぱいだと思ったのとよく似ている。
その後は、村上の本も出ればとりあえずは買うけど、そのまま本棚行きということが続いている。池澤の本もそうだ。丸山健二もそうなって久しい。いまや文芸書で読み通すというと宮本輝と連城三紀彦くらいのものだ。
RBの本も藤本訳なら必ず買った。ペイパーバック原書も買って読んでみたけど、藤本訳の方がうんと心地良い。
そんなRBの本は、少し前に新潮から文庫になった。。また驚きだ。読むやついるのか・・・どうも信じられない。
ただひとつ言えることは、RBを訳し続けた藤本和子女史の文体形成上の創造力は後世に大いなる種をまいたということだ。
まぁ、そのことはまた書くだろうと思う。とりあえず宿題としてメモしておく。
もう、純文学と言われるものが時代を引っ張るというような事は二度とないのだろうなぁと思う。
一抹の寂しさはあるけれど、それはある意味では正しい事ではある。
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