1940年(昭和15年)6月 日本ニュース第1号
莞爾 石原·
公開日: 2013/02/28
「日本ニュース」は、太平洋戦争を間近に控えた1940年(昭和15年)から終戦をはさみ、1951年(昭和26年)まで制作されたニュース映画です。制作したのは、「日本映画社」(※)で、1940年にそれまで4つに分かれていた新聞社や通信社のニュース映画部門を国策により統合したものです。
戦時中の「日本ニュース」は、日本軍や内務省の検閲を受けた後、毎週映画館で封切られ、国民の戦意高揚に用いられました。テレビがない時代、国民は「日本ニュース」が伝える真珠湾攻撃や特攻隊出撃、学徒出陣の様子を映画館で目にしたのです。
「日本ニュース」は、戦争完遂を目的にした国策映画ですが、太平洋戦争中の映像記録として大変貴重なものです。「戦争証言アーカイブス」では、太平洋戦争を間近に控えた1940年(昭和15年)の第1号から、1945年(昭和20年)末の第264号までを公開しているほか、1946年(昭和21年)からの「戦後編」も順次公開していきます。
Wiki
日本映画社(にっぽんえいがしゃ)とは、現在の株式会社日本映画新社の前身で、昭和前期に存在した映画会社である。略称、日映。ロゴは略称をもとにした「日央日」(左右対称で、右横書きで日映と読める)。
第二次世界大戦中は日本国政府の意向を受けたニュース映画、国策宣伝映画を量産した。終戦後、改組され、ニュース映画のほかに、記録映画、教育、科学映画を多数製作した。
沿革
- 1939年 - 映画法が制定され、映画館で映画の上映前後には必ずニュース映画を上映することが義務付けられる。
- 1940年4月 - 政府の統制を容易にするため、朝日新聞社、大阪毎日新聞社(東京日日新聞・大阪毎日新聞)、読売新聞社の大手新聞3社と同盟通信社のニュース映画部門が統合され、社団法人日本ニュース映画社となる。一時は1,000人を超すスタッフを有する一大報道機関となる[出典 1]。
- 同年6月「日本ニュース」第1号封切られる。記念すべきトップ項目は「昭和天皇関西御巡幸」であった。
- 皇室関連のニュースは必ずトップ扱いであった。また敬意を表す意味で当該ニュースの冒頭、右上(縦書きの場合。作品によっては画面いっぱい)に「脱帽」の字幕が出た。
- 当時の製作データ
- 1941年 - 東宝、松竹の文化映画部門と各文化映画製作会社を吸収し、社団法人日本映画社へ改組。週1本のニュース映画と多数のプロパガンダ映画を製作する。
- 1945年 - 原爆投下後の広島と原爆投下後の長崎を撮影("The General Effects of the Atomic Bombs on Hiroshima and Nagasaki")。終戦により、映画法廃止。戦没した従軍カメラマンは45人に及んだ[出典 1]。
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