2016/05/31

ブルースの歴史02 デルタブルース01 - チャーリー・パットン Charley Patton

 ブルースが生まれたのはアメリカ南部最奥部ミシシッピデルタ地方だという。黒人が綿花収穫時などに歌ったワークソングが起源らしい。コール・アンド・レスポンスなどもその名残だと言うことだ。
 片方で、神の音楽として西洋音楽と黒人の感性の混じったゴスペルが生まれ、世俗ではブルースが生まれた。当時の生活環境を考えるとその歌詞の内容は押してはかれるだろう。故に、悪魔の音楽とも言われたそうだ。
以下、思いつくままに腑分けして代表的な人物の解説をウィキから音源をYoutubeで引きながら、その歴史を学習してみようと思う。
 しばらくちとしんどいと思います。古い話だから我慢するしかないです。

チャーリー・パットン Charley Patton
生誕 1891 (1887, 1894) 年4月
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミシシッピ州エドワーズ
死没 1934年4月28日 サンフラワー郡インディアノラ
ジャンル デルタ・ブルース
担当楽器 ギターボーカル
共同作業者 
ウィリー・ブラウン
トミー・ジョンソン
ヘンリー "サン" シムズ
サン・ハウス
チャーリー・パットン(Charley (Charlie) Patton, 1891年 - 1934年)はデルタ・ブルースギタリストシンガー。通称「デルタの声」。デルタ・ブルースを形作った一人であり、それを世に知らしめた第一人者。
来歴
1891年1887年、または1894年の説あり)、ミシシッピ州ハインズ郡エドワーズ近郊に十二人兄弟の一人として産まれる。家族は当時ジャクソンヴィックスバーグの間にある農場で物納小作人(en)として働いていた。
1897年、家族は100マイル北のドッカリープランテーションへと移住。綿花の摘み取り等の仕事に従事した。
チャーリーは厳格な父の目を盗んではパーティーや盛り場へ出かけ、チャットマン一家(ミシシッピ・シークス)と共に演奏を繰り広げたり、その地に住んでいたギタリスト、ヘンリー・スローン(1918年、シカゴに移住)にギターを学んだりしながら、腕を上げていった。頻繁に演奏を共にしたミュージシャンとしてウィリー・ブラウントミー・ジョンソンジョー・マーティン、のちにサン・ハウスハウリン・ウルフロバート・ジョンソンヘンリー ”サン” シムズらがいる。
1929年6月14日、彼はインディアナ州リッチモンドに位置するゲネット・レコードのスタジオで初のレコーディングを行い、14曲を録音、その中の

ポニー・ブルース(en)」が

「バンティー・ルースター・ブルース」とカップリングされてパラマウントより発売され、これは彼の代表曲の一つとなった。パラマウントではその後、グラフトンのスタジオにて二度のレコーディングが行われている。1929年冬のセッションではフィドラーのヘンリー・シムズが、30年においてはウィリー・ブラウンが四曲中二曲で参加している。
それ以降、極度の飲酒煙草、不規則な生活、それに喉を切り裂かれかけたことも重なり、ひどい体調不良へと陥っていく中、1934年1月、彼はニューヨークにて内縁の妻バーサ・リーと共に、生涯最後となるレコーディングに望んだ。その中には有名な

「34ブルース」や

「オー・デス」等が含まれている。
約一ヶ月後、彼はニューヨークから自宅のあったホリー・リッジ(en)へと帰り、それからしばらく経った4月28日、サンフラワー郡インディアノラ近くのプランテーションにて、心臓発作を起こして死去。死亡証明書によると死因は「僧帽弁障害」。死に至るまでの数日を、彼は説教を行って過ごしたという。















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