2015/06/08

石田勇治 東京大学大学院教授 「ドイツの戦後和解」①ナチズムの克服 2015.4.17 jnpc

石田勇治 東京大学大学院教授 「ドイツの戦後和解」①ナチズムの克服 2015.4.17 jnpc
2015/04/19 に公開

Yuji Ishida, Professor, Graduate school of arts and sciences, The University of Tokyo
東京大学大学院の石田教授が、ドイツの戦後和解の取り組みについて話し、記者の質問に­答えた。
司会 倉重篤郎 日本記者クラブ企画委員(毎日新聞)
日本記者クラブのページ
http://www.jnpc.or.jp/activities/news...
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記者による会見リポート(日本記者クラブ会報5月号に掲載)
戦後ドイツの和解 その成果と限界は
政治指導者の役割重要
戦後70年を迎え、日本の歴史問題への取り組みをめぐる議論が盛んになり、その中でし­ばしばドイツが引き合いに出される。戦後ドイツは、周辺国やイスラエルとどのように和­解していったのか。
第1回は、ドイツ戦後史に詳しい石田勇治氏が、概論を語った。
西独、そして統一ドイツの「過去の克服」の取り組みは多岐にわたるが、ホロコーストな­どナチスが犯した不法に対する補償と、司法訴追が、2つの大きな柱だ。各分野での政策­は、政治がその時々の社会的要請や国際的な圧力に応えたもので、多分に「場当たり的」­ではあった。
しかし、次第にドイツの過去への取り組みは、国際社会で高い評価を得るようになる。
こうした経緯をたどった要因として、石田氏は、過去への反省を内外に示したブラント首­相やヴァイツゼッカー、ラウ両大統領の例を引いて、政治指導者の役割を強調した。
ドイツとイスラエルとの関係を取り上げた武井彩佳氏の話(第2回)は、アデナウアー西­独首相の「現実路線」に焦点をあてた点で、新鮮味があった。
ドイツは1952年、アデナウアーの決断で、イスラエルと「ルクセンブルク補償協定」­を結んだ。戦後和解プロセスの出発点だ。
武井氏によれば、アデナウアーが国内の反対を押し切って協定締結を推進したのは、「国­際情勢を勘案して利益が大きい」との現実的な判断に立ったからだ。
この時期の西独は、戦勝国である米、英、仏との間で、主権回復と再軍備に関する交渉を­行っていた。こうした復権が西側戦勝国から認められるためには、イスラエルへの補償を­行うことが必要だった。
一方、イスラエルの指導者も、経済的な逼迫を打開するため、ドイツからの補償を受け入­れるという現実的な選択をした。
「冷戦の枠組みの中で、和解という方向性が、ドイツ人、ユダヤ人双方のニーズに合って­いた」というのが武井氏の要約だ。
第3回の川喜田敦子氏は、ドイツがフランス、ポーランドなどと行っている歴史教育分野­での対話を紹介した。対話は、教科書の内容を互いにチェックして誤りや偏見を指摘する­という初期段階から、両国関係に関する出来事の共同執筆に進む。
独仏は、「対話の長い積み重ねの上に立ち」21世紀に入って高校生向け共通教科書の刊­行にこぎつけた。
ただ、共通教科書は、多分に「派手なパフォーマンスを望む政治」の後押しを受けたもの­であり、教育現場での採用率は低いとのことだ。
共通教科書を目標とするより、対話を通じて、他国民を傷つけない歴史記述を模索するこ­とが重要だというのが、川喜田氏の指摘だ。
いずれの回も活発な質疑応答があった。「ドイツによるユダヤ人への優遇は、イスラム系­住民の視点からは、どう捉えられるか」「ドイツとロシアとの歴史対話は可能か」「植民­地支配の過去への取り組みは十分か」といったポイントが取り上げられた。いずれも、ホ­ロコーストへの反省に重点を置き進展してきた、ドイツの「過去の克服」の限界や急所を­つく疑問である。
議論は、現今の幅広い国際問題と関連付けて、戦後ドイツの歩みをより深く理解しようと­する方向に向かったと言える。
読売新聞論説委員
森 千春
*このリポートは、下記同シリーズとの統合版です。
・武井彩佳 学習院女子大学准教授(2015年4月22日)
・川喜田敦子 中央大学教授(2015年4月24日)

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